歌集との出会い 続続

 

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    森水晶『それから』 (ながらみ書房 20115月)

 

題名は夏目漱石の『それから』から取られているようで、第一章の「それから」を開けると、「僕の存在には貴方が必要だ/どうしても必要だ」というきざなセリフが、いきなりとび出して来る。ここでの「それから」は、いわゆる三角関係(とっくに死語となっているか?)を言っているのであろう。

 

読みやすい歌集で、小説を読むように読むと1時間足らずで読めてしまう。しかし、内容では中編小説一遍ぐらいの量はあるので、意味やストーリーにこだわって読むと、その3倍ぐらいは時間が掛かるかもしれない。 

 

最初の連作の題は「流刑地」である。「昭和二十二年に姦通罪は廃止された」という詞書のもとに

 

  流刑地の空はま青にかがやきて河原芒の風にそよげり 

の巻頭歌がしるされる。姦通罪は北原白秋の事件で有名だが、要するに人妻が間男をこしらえてそれが露見すると、夫からの訴えにより両人とも監獄に連れていかれる。逆に妻ある男が情婦をこしらえても、法律上はお咎め無しであった。

 

ここでの「流刑地」は、昔なら姦通罪に相当する二人が東京から逃げて来て、十年以上を過ごしている土地を指す。この流刑地の一連には 

  枯れ葦の穂の間より腰曲がる老婆ゆったり()ぎるさまみゆ 

  腰曲がる老婆去りゆく冬の陽に野菊の花束後ろ手に持ち 

あって、間夫とともに逃げて来てこの寂しい土地に住むの主人公の、将来を暗示しているかのようである。なお、姦通罪がなくなってほぼ七十年がたち、間男、間夫、ツバメなどという呼び方は死語になっているように思われるので、以後、愛人とする。愛人と言えば配偶者未満、恋人以上の仲にある男女をも意味するが、ことばのうるさい定義は、ここでは省く。

 

流刑地と言っても、家は西窓に秩父連峰の見える所にあって、故郷つまり東京から一時間あまりの距離と作品にある。

 

 「ベランダにたてば入間の駅前のビルなどもみゆ東京はさらに先」とある。つまり、入間市かその近くに仮託されている。ここいらは東京を故郷とする主人公の土地感覚によるものである。虚構による写実にして描写がリアルである。

 

  愛人は建築関係の会社の事務や現場の仕事をしているようで、もとは家業を継ぐはずだったのだがそれを嫌い、音楽バンドをこころざしたこともあったようである。熱心に虫を飼ったり魚を飼ったりしていながら、一方では自分に子供の出来るのを強く拒絶している。悪くいえば幼児的だが、歌集の主人公から見れば万年青年のような男とも言える。

 

……など、この歌集は短歌で書いた小説であるから、細部の描写だけでなく、全体のストーリーも面白い。面白いが、それを詳しく書くといわゆるネタバレになって興をそぐ。東京の夫がからみ、子どもが思い出され、競馬がからむ。そのことは、歌集を読む読者、つまりあなたに任せて、かんじんの短歌を見ていく。 

 

 

  長髪のバンド仲間もみな去りて君はかすれたエレキギター弾く

 

  レイトショー終りて館を出でくれば人影のなく見知らぬ夢の街

 

  キッチンのガラスボールに砂を吐く浅蜊のわずか動く音せり

 

  愛すれば重みを生ましぬ風花のごと軽やかに踊りし恋も

 

現在の、周りを山で囲まれたような街での生活の様子が知られる。恋のときめきの一時が愛の生活に変って、二人でレイトショーの映画を見にいったりもして、それなりに落ち着いた日々を送っているようではある。 

 

次の第二章「刺青」の作品の最初に「君は二十五、私は三十三だった」と詞書があって、ここは「恋」する日々の思い出を詠んだことが知れる。

 

  はちみつをかけたような夜が来る会いたくて会いたくて走る坂道

 

思い出話にしても、蜂蜜のように甘い内容である。

 

  スイカズラの香り漂う公園にわれ待つ君を月が照らしぬ

 

  甘い息首にかかりて背中より抱かるるスイカズラの蕊の尖れり

 

  目をとじれば遠くパトカーのサイレンのかすかにきこゆ甘く痺れて

 

  青草のちぎれる匂いと君の香とまじりてわれも獣の匂い

 

  甘く烈しくくるおしくうつくしきものがいまわれをつらぬく

 

男女によらず不倫短歌、いや、恋愛短歌と言えば何人もの近代の大歌人たちの多くの作品を思い起こすが、虚構によるにもかかわらず、作品のリアリティーとインパクトによって、この歌集『それから』のこうした作品に見られる恋の情熱は、それらに劣らないのではなかろうかと思われる。 

 

 しかし、この話は、あるいはこの話も、いつまでもそうは無事にうまくはいかない。

 

  分銅と塩 夫と愛人 うまくやれると思ってた君に会うまでは

 

  夏の日の饐えしぎしぎしゆうぐれに匂いて黒き虫の寄りくる

 

  ダンダンダン 雨は激しく銃声のごと耳を撃つ何かが終わる

 

  人妻を孕ませたりしすさまじき苦悩の君の横顔の()

 

  安宿の枕辺飾る一輪の薔薇濃密に闇に匂えり

 

妊娠があって、お定まりのように修羅場がやってくる。

 

  眠られぬ君の首筋にてのひらをそっとあてがい心中真似る

 

  清らかに息吐く君にくちづければわがふたたびの涙にじむも

 

  空にひらく欅並木の揺れ揺れて怒りのごとく葉の舞い狂う

 

まだまだ、歌はつづくのであるが、この歌集の場合は全体が一つの作品であるから、部分の引用より、歌集全体を読んでいただくのが筋であろう。

 

作者は「あとがき」で「私が歌いたいのは「生きる喜び」、「うつくしい人生」についてです。」と書く。

 

 この歌集『それから』に先日紹介した歌集『羽』が続くのであった。

 

 

 

1224

 

     佐藤弓生 『モーヴ色のあめふる』(書肆侃侃房 20156月)

 

今年もいただいた歌集の多くを読み残してしまった。

 

さて、この歌集、なぜか最近になって、買おうかどうしようかと迷っていた。 

年末も近づいて納屋へいらなくなったダンボール箱を持って入ったら、なぜか、この本が目の前にあった。「謹呈 著者」と印刷した栞があるから、去年、つまり今から1年半も前にいただいていたのである。

 

「モーヴ色」とは、どんな色なのか。インターネットで調べたら、ちょうど、この歌集の表紙の裏、見返しに使われている薄青紫とでも言えそうな色である。こんな色の雨、見たこと無いなあと思う。現実の色というより、心象の色、色のイメージなのかも知れない。 

「目次」を見ると、章の名前が「百年の間こうして」、「『夢、十夜』より」、「薔薇十四、五本を」「月百首」とある。「百年の間こうして」は、たしか夏目漱石の『夢、十夜』の出だしのセリフだったと思い出す。

 「十四、五本」は正岡子規の鶏頭を吟じた俳句にもあるが、口調のよい数字で、赤い色との組み合わせは、私の最近のイメージでは、寂しさよりも賑わいを、死よりも生に近い感じがするように思うが、どうであろう。読み手の心理状態にもよるか。もちろん生は死を、死は生をただちに連想させやすい。

 

  あなたとのひかりの時間しんかんと籐籠を編みあげゆく秋は 

  恨みたい人などなくて雲の縁ほつるるままにわが淡き生 

  死を思いやすいからにはわたくしも父の胎から生まれたむすめ 

  冷蔵庫とざせばひとしれず灯るとびらの裏のちいさな指紋 

この「あなた」は、いない人のような気配である。「恨みたい人などなくて」とはまた、存在感の希薄なこと。「父の胎から生まれた」とはまた、この場面はどこか隣りの地球なのだろうか。「ちいさな指紋」は誰の?……何ともあわあわとした、この世にはあるかなきかの繊細な存在感である。

 

  金網のかなたレグホンほのしろくうすくらがりにうかみておりぬ 

  おばしまにうすあをき首つらねつつゆく船にして旅の初七日 

  薔薇十四、五本をくるむ〈溶融〉の文字あたらしい新聞紙にて

「ほのしろく」「うかみ」「おばしま」「うすあおき首」など、この具象たちのこの世らしくなさには陶酔を誘われそうである。

三首目は「ある四月の記録」の小見出しのある一連のなかの作品で、次に引用する作品などもそうであるが、かすかに、あくまでも、かすかに、福島の原発事故を連想させる。この章全体の見出しが初めに述べた「薔薇十四、五本を」である。  

 

  立入禁止区域に星を戴いてもう産まなくていいよ牛たち 

  新聞受けに新聞なくて惑星の昼ひそやかに藍色のドア 

この「惑星」は地球のはずだが、地球でない気配もする。夢というには現実感があるが、現実というには現実感が薄い。「牛たち」は現実のものでありながら、現実から隔離されているようでもある。

 

  雨ん中はだしで行きたいな散歩 恋をしらない仔猫みたいに 

  宇宙には毛が生えていた 夜いろの猫の椎骨かぞえるあいだ 

「毛が生えていた」宇宙だとか、「夜いろの」猫だとか、そんなもの知らないよなあ、と思う。そこから来る感覚的な、この世ならぬ異質さが、新しい未知の空間を存在させるかのようである。

 

  ながあめに誰のものでもない月のような男とすれちがいたり 

  まんまるな月ほどいては編みなおす手のやさしくてたれか死ぬ秋 

  月球を眼窩に嵌めて灯台は船を待ちたり魚竜の世より 

  大夕焼これはこの世のことにしてたまゆら風に鳴る二日月 

なんとこの「月」!と言って、絶句しそうである。限界を越えそうなあたりまで、ことばによるシュールな世界が創造され生みだされている。短歌で、ここまで行けるとは思ってもみなかった。このひえびえとした美は、この世を越えているなと、ただただ感嘆するのであった。

 

歌人集団「かばん」会員とある。短歌結社ではなく、歌人集団に所属というのもまた、現代的である。

歌集の奥付や著者略歴にも住所の記載はない。念のため角川の『短歌年鑑』の「全国短歌人名録」を調べてみたが、佐藤弓生氏の名はあるが、住所の記載はなかった。

おそらく、上に引用した作品などは、歌会などの集団の場で練ったものではないであろう。

本当にすぐれた個性を持つ作品は、たぶん歌会などでは、否定されかねないものである。

 

 

 

1216

 

    森水晶『羽』 (コールサック社 201612月)

 

 読みやすい。言葉はつかみやすい。だが、心がつかみにくい。読み始めたところで、はたして自分にこの歌集が読めるだろうかと心配になってきた。  

 

  しずかなる炎のなかにひとのいてふと微笑みぬうつくしきかな 

  浅き夢 青年の君にわれがなり風の川原で草笛を吹く 

  宝物みせるがごとく君が手をひらけば螢ひとつ舞いゆく

 

歌集の5、6、7首目の歌である。3首を並べると、この美しい「ひと」は男である。どういう場面が設定されているのか、歌集を2度読み、3度読みして、ストーリーがぼんやりながら見えてきた。 

この歌集の主人公は、もはや若いとは言えないが、男が惹かれる魅力的な女性なのであろう。長年幸せに共に過ごした夫があるが、それとは別に若い愛人を持っている。「オークスを制しし騎手の投げる花束かぐわしき五月の薔薇」とあって、その男は私に花束を投げる騎手のような、男。「かぐわしき五月の薔薇」とは、騎手、あるいは騎手のような男のことだろうか。あるいは騎手がそれを捧げる私のことのようにも感じられる。 

ウム、釈迢空の言った「女歌」という言葉をふと思い出した。

  

  傾けて雨やみしこと確かめて君はパラソルそっと閉じたり 

  忘れない かなしみに手を触れし夜のまだ咲き初めし水仙の香を 

雨のなかでパラソルをさしてくれていた「君」は若い愛人であり、繊細なしぐさを見せていて、性格もぼんやりとだが分かる。「まだ咲きそめし水仙」は、彼をイメージするものでもあろう。「かなしみに手を触れし」は恋のかなしみに触れたことを言っているのであろうが、彼の肉体に手を触れたことをもイメージさせる。これが歌集冒頭の二首である。 

 3度読んで、勝手な読みかも知れないが、ストーリーが自分なりに想像できるような気がしてきた。

 

「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」と3部に別けている歌集の「Ⅰ」の章の最後の「星の夜」では 

   もう二度と観ることも買うこともなきサラブレッドは翼を持てり 

   「二十年三十年でも待っている」聖夜に届くメール削除す 

とあり、前者は愛人との別れを暗示し、後者は夫からのメールを暗示しているかのようである。 

 男の読者である私は、なんだかえらくモテる女だな、と思ってしまうが、それが作中のドラマの「心」をつかみにくくする原因ともなるのであろう。 

 歌謡曲の作詞者でも、小説の作者でも、たやすく男の作者が作品のなかの女になれるようだが、短歌はそれが難しい。作中の「われ」イコール「作者」として読む習慣が強固なものとして、頭にはめられてしまっているからだろうか。 

作者として「女」になり難いということは、読者としても核心部分では、女になり難いのではないかと思う。百人一首などを読むと、伝統和歌の作者、読者は、同じ三十一文字でも、やすやすとそこを越えているようではあるが。 

 

  会いたかった 言えば壊れる仲にして氷ひとつをグラスに落とす 

  さりげない話題例えば昨夜みし夢の話にこころ安らぐ 

  便箋のするどき縁で指を切るわずかの傷に涙とまらず 

このあたりは、なるほどとすぐに共感できる。男性の心理でも恋するときは、こうしたことも在り得るかもしれない。とうとつだが、たとえば大伴家持や北原白秋のような春愁を知った詩人なら、こんなこともありそうだ。

  

  美丈夫の君がコートの立ち姿ほれぼれとみる人混みのなか 

  離れ立つ大き背中のかたときも忘れずわれを守りておりぬ 

  草のうえに置かれし眼鏡に秋蟻の這うをみており温き腕のなか 

これは、先の愛人かどうか、少し雰囲気が違うような気もする。大柄の人であり、「われ」を抱きしめ守ってくれる男の人である。あるいは、先の水仙のような青年の成長した姿であろうか。あるいは、イメージのなかのあの人であるから、二面性をもっていても不自然ではないとも思える。

 

  東京に戻りたくて帰れずに十六年過ぐ手首も細り 

  夫に背を向けて眠れる真夜中にちゃりんと鳴りしスマートフォンは 

  さようなら一途な想い十八年愛せし夫よ愛されしわれよ 

理論的に考えると、夫、愛人、私の位置関係が混乱してくる。ちゃりんと鳴ったスマートフォンの音は、夫ならぬ男からのものであろうから、年月の流れにも混乱する。

 

 「懲りもせず色恋沙汰を繰り返す愚かな性に涙こぼるる」とあるところからすれば、あるいは愛人が複数いるのかとも思えて来るが、そう論理的に考えるものではないであろう。抒情性の濃いこうした連作では、行きつ戻りつする物語の流れにただようように読み進めるのもよいであろう。短歌の連作では、一首ごとに視点をずらしたり、取り替えたりしやすい利点がある。視点を固定させて読むと読めなくなる場合があるであろう。

  

  捕らえてはならぬ蝶々に網をふる冷夏の果ての八月の空 

  捕らわれて羽震わせる青き蝶ふるえる指で砂糖水遣る 

  死ぬほどの恋とはこのようだったのか君を知り君と逢い君に触れ 

  鳥籠でもがきし鳥の散る羽の真白の散乱君が愛した 

  真夜中の羽音のごとく君が泣くわたしの胸の寂しさのなか 

これらも注目されるいい作品である。ただ、こうした女性的な、情熱的かつ繊細微妙な観念性の感じられる作品は、私にはその「心」に、把握しにくい部分がある。与謝野晶子などにもそのようなことはあるし、読んだことのない原阿佐緒のアララギ以前の初期歌集などに、こうした観念性の感じられる作品があったかもしれないなどと、無責任なことを、ふと思ったりした。

 

あまり書きすぎると、勝手な見当はずれの解釈になってしまうかも知れない。作品を追うのはひとまず、これで終える。

 

「あとがき」に次のように書いておられる。  

  小説のように、或いは映画のようにストーリー性のある歌集を作りたかった。 

  このようなものは、一首独立が原則の短歌でやるべきではないのかもしれな 

  い。だからこそ敢えてやりたかった。誰もやっていないことを私はやりたい 

  のだ。 

男も女も平板な日常の生活を詠むことばかりを短歌と思っているような今の時代である。 

ストーリーを構築した現代の恋愛の物語りを、歌で作ろうとするその気概やよし。

 

「誰もやっていないこと」をやるのが文学者というもの。 

 

この歌集が広く読まれることを強く望みたい。

  

 

1210

 

   武藤ゆかり 『北ときどき晴れ』(南天工房 20159月) 

 

   灯()を落とし湯舟に沈むこの夜更け幼き日々の雨だれ聞こゆ 

日常生活の中で、ふと思ったことを短歌にしたものであるが、「幼き日々の雨だれ」という表現に詩的な抒情を感じる。 

 

  心配がいつか支配にすり替わる山へはゆくな川へもゆくな 

  農村の道どこまでも舗装され犬のふんさえ落としてならず 

  ぬらぬらと(べに)あざやかな生き人形奪えるならば奪えとささやく 

実際に見た情景を描きながらも、深くしっかりと批判精神が働いていて、平板な記録に流れるのを防いでいる。 

 

  渚ゆくさまよいびとのつむじまで拡大できる軍事衛星 

  そのかみの母は偉しと聞くたびに胸の辺りがむかむかとする 

  年の瀬に最後の家が立ちのいて拡張工事始まりにけり 

社会批判の届く射程距離は大きく、多様である。 

 

  ああ夕陽きょうは異様に美しい非常階段駆け下りながら 

  避難所の大講堂の壁際に結露はげしくしたたる一夜 

  夜中にも朝にも並ぶ人人人ただ一台の公衆電話に 

作者は茨城県在住で、3.11の東日本大震災に遭った。前後して阪神淡路や熊本の大震災もあり、被災者としてこうした光景にであった人もあるであろう。それを詠み取ったのは短歌作i家としての力量による。 

 

  差し入れのあった家族はまるくなり温かいもの飲んでいるなり 

  自宅から毛布を持ってきたのだろう彼らは今夜眠れるだろう 

  腕組んで画面に見入る大人たち興奮しすぎて泣く子供たち 

避難所の光景である。ルポルタージュ文学を思わせる場面の捉え方であり、被災者の目で見ているので、実感は深い。

 

電源が入り、「一人だけ助かった人を取り上げる平和な時の美談みたいに」「中継に避難住民の待遇を尋ねることにいかなる意味が」とテレビ局からの取材に対しても、批判精神の働いているのが知られる。 

 

  今のうちに歯磨きだけはしておこう今日明日(あす)中に放射能の雨 

  茨城(いばらき)産ほうれんそうの安全性報道されて致命的なり 

  ちまたには募金詐欺なる商売がはやる作業員被爆した頃 

テレビなどからの情報が頻繁に入り始めたのであろう。「関西へ逃れた人も多いとか録画ににわかに増えた民放」と、情報が作者とその周辺からだけではなく、大きな範囲から入ってくるようになる。原発の水素爆発に関する報道が頻繁になる。これは全国的な関心、あるいは恐怖を呼ぶものであったが、福島の隣県に住む者にとっては、リアルに身に降りかかるものであったであろう。 

 

  村じゅうに広報ひびく朗々と午前十時の放射線量 

  海岸の瓦礫(がれき)を運び出すという中学生ああ防護服なしで 

  測定器の針振り切れてしまうまで集めて濁る下水処理場 

「あとがき」に「東日本大震災のいわゆる震災詠が中心となっている。」とあるように、震災詠がこの歌集の最も重要な部分となっている。ただし、そのほとんどは、3部にわけられた歌集の、第一部にあり、第2部、第3部にもそれに関する作品はあるが、「楽観と無視を重ねて半年が過ぎゆきにけり爆発ののち」「最悪の事態はいつの日のことか我はおろおろ水などを買う」などと、震災後の思いが中心となってくる。

 

 1120首というたくさんの作品が収められているにもかかわらず、読みやすくて、一気によめた。写実の確かさと、深いところでモチーフを掴み取り作品を組み立てるための批判精神が働いていたからであろう。

 

 東日本大震災の直接の被災者の歌集を読むのは、今回がはじめてであった。貴重な機会を得たと思う。

 

 

 

 

12月1日

       宇田川寛之発行『六花』VOL.1 (六花書林 2016年12月)

不定期の短歌雑誌のようであるが、総合短歌誌というわけではないようだ。

六花書林のホームページで見て、注文したら、今日の昼過ぎに届いた。

 

最初の「ツンデレからデレデレへ」(松村正直)に引き込まれて、つい代金の756円を振込に郵便局へ行く時間も惜しんで読み込んでしまった。

こうした冊子本を読む楽しみは、よき短歌作品との出会いがあること、そして作者や執筆者との出会いがあることであろう。出会えてよかったと思う作品のうち、いくつかを挙げてゆく。

 

  難民の流れ込むたびアンマンの夜の燈は、ほら、ふえていくんだ 千草創一

 

 「「ほら」が入ることによって、突如、語り掛ける相手がその場に出現し、作者が立ち上がってくる感じがする。」とは、松村正直氏の解説。ところで、このアンマンの灯は、実際の現実として、作者がその場に立ち会っているわけではなく、パソコンかスマホの画面で見ているのであろう。にも関わらず、臨場感が強い。情報機器の発達によって出現した、不思議なリアリティーである。

 

 次は米川千嘉子氏の「与謝野晶子のもう一つの可能性について」

 

  血に染める小さき雙手(もろで)に死にし児がねむたき母の目の皮を剥ぐ 与謝野晶子

 

「双子の難産(一人死産)を詠んだもの」との説明がある。現実の出来事を詠んで、このようなインパクトのある作品を与謝野晶子が作っているとは知らなかった。

 

 久我田鶴子「事実から表現へ――桃原邑子の場合」

 

  むくろなる母の乳吸ひ幾日を生きし幼かまなじり閉ざせり 桃原邑子

 

「この戦場詠のなまなましさは、桃原邑子が沖縄戦の体験者であるという誤解を招くことにも繋がった」とある四首の内の一首。ということは、体験しないでこれだけのリアリティーのある作品を作ったということである。震災の経験なしに真の震災は詠めないという私の認識を覆すものであった。

 

 藤島秀憲氏の「歌集に尽きる」。

 

  障害に負けまいと子が真夜中のパチンコ台を拭いているころ  藤村学

 

「やはり場面が明確に見えてくる。しかも曖昧なところがないので、想像力を必要以上に使わなくて済む。」と解説にある。「場面が明確に見えてくる」のは、ありがたい。もっとも「想像力を」云々は、この作品の説明としては余計な言葉である。

 

 佐藤弓生「杉﨑恒雄さんの歌集のこと」

 

  たくさんの空の遠さにかこまれし人さし指の秋の灯台 﨑恒雄

 

「まずは六花書林刊の二冊で、明るく繊細なポエジーを楽しんでいただきたい。」とある二首のうちの一首。「人さし指の」という比喩がすばらしい。

 

 大松達知「柏原驍二のおちゃめな連作。

 

  たのあぜを ちゃぐちやぐうまの くるあさは くるよなあさは たがめがおよぐ 柏原驍二

 

歌謡ふうの一風変わった魅力のある作品である。

 

  月の照る河越えて樹の精とびゆきぬ、大木の胡桃に百年やどりたる精  柏原驍二

 

これは、「伐られたる胡桃の木に寄す」とある五首の旋頭歌のうちの一首。これも歌体、内容ともに魅力がある。

 

 執筆者は、ざっと数えて20名であった。

 以上の例から見ても、この冊子、予想した以上に貴重なものであるなと思う。

 筆者ごとの原稿が、2ページまたは4ページと読みやすい量であるのもありがたかった。

 

 

 

1126

 

   おの・こまち 『ラビッツ・ムーン』(再読)

 

 歌集に限らず、文芸作品を読むときには、自分の好きな作品を自分の好きなように読むものだ。それが楽しい。

 

 だが、文章にしてその感想を書くとあっては、自分の好きなように、とは少し違ってくる。まして、ブログに書いて公表するとあっては、大いに違ってくるはずである。

 

 ラジオを聞くには、ラジオ局の波長を捉えないと聞けない。それも、できるだけ送信機の発するところとピッタリのところで。そのように、ブログに書く歌集を読むときには、なるべく歌集に合わせた読みをするようにしている。

 

 そこで、まず歌集の発している電波のようなものを捉えるために、波長合わせを行う。

 

これは、作者の意図に合うかもしれないが、意図からずれることもあろう。作品は、しばしば作者の意図を越えて発信されるし、読者の方でも、受信機の癖のようなものを持っていて、自分の好みの所に波長を合わせる場合があるであろうから。

 

 それでも、波長あわせがあまりうまくいっていないと、うまく受信できず、音が小さすぎたり、ノイズが大きいような状態になる。

 

 『ラビッツ・ムーン』については、ブログを書いてみて、一部分の作品だが、自分ながらこの波長合わせが、どこかうまくいかないなあという感じがあった。読めているようで、うまく読めない作品がある。そういうことは、他の歌集でもあることだが、出版の記念の会があることで、それが気になってきた。

 

 前置きが長くなったが、そのようなわけで、もう一度、ブログに書くことにした。

 

  アトムの絵の真っ赤な財布に五円入れ嬉しそうだな二歳のわたし

 

  妹の名前はウランなんという可愛い響きウランになりたい

 

歌集の、冒頭の二首である。これをどう読むか。

 

 分からない作品として言われるのは、たとえば明治の新詩社の歌、なかんずく与謝野晶子のかの『みだれ髪』の冒頭歌「夜の(ちゃう)にささめき尽きし星の今を下界(げかい)の人の鬢のほつれよ」である。ここで、作者は歌集の「われ」を恋に鬢をほつれさせている乙女として宣言しているのである。

 

 その例を引いてくるのは、時代っぱずれか知れないが、『ラビッツ・ムーン』も冒頭にアトムとその妹のウランを登場させている。その「アトムの子」の三首めが「日本初のアニメの()し年出生数は百六十六万」とあろ。作者の意図はともかくとして、結果としてこの歌集の「われ」たちは、テレビ時代以降のいわゆる「ポップ・カルチアー」(新しい大衆文化)申し子であることを宣言しているのではなかろうか。

 

 この「アトムの子」の連作などは、アニメで育った、あるいは、私のように手塚治虫の漫画(劇画?)の鉄腕アトムで育った世代には、分かりすぎるほど分かりやすい作品が並んでいる。このあと、「けものの子」「石と王子」の一連があって、いずれも絵本や児童文学や、あるいは映画や時代のニュースなどから得た情報の存在が感じられる。 

 

 この三つの連作が、大きく分けられた歌集の「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」の「Ⅰ」を構成している部分である。この歌集を分かるためには、こうした構成にも注意して、一首一首を、連作のなかの構成部分としても読み進める必要があるようだ。

 

 もっとも、詩歌は感じるか感じないかが問題であって、分かるか分からないかは二の次であるから、一首だけを取り出しての鑑賞もよい。よいが、ブログに、それだけで感想を書くのは少々不用心であったことを反省しておく。ただ、歌集の詳しい分析は後世の研究者にまかせて、ここでは気になりながら解けない一首について述べるだけにする。 

 

 

  結晶す夜明け前にて花嫁は極薄の大ガラスを抱けり

 

歌集の「Ⅱ」の章の、「法則の日」の見出しのある一連の中ほどにある作品である。魅力的な一首であるが、分かったようでなんとなく分からない。

 

 考えると、まず第一句の「結晶す」でつかえてしまう。「結晶す」……何が? 歌に現れているのは「花嫁」と「ガラス」である。花嫁が結晶するとは考えにくいし、ガラスも結晶しないが、氷は結晶するので、ガラスから「氷」を連想したのだろうか。するとガラスは、窓ガラスのような平たい平面様のものでなければならないが、花嫁が抱くからには、ここのガラスは、器のような球形や四角柱のような形のものであろう。

 

 頭で考えると詩歌のよさは壊れる。頭で考えるのではなくて、視覚をもって感じれば、万華鏡をのぞき見るような、きらきらして、色、形が移り変わる妖しく魅惑的な世界が見える。単に作品を享受するのなら、それで十分である。

 

 ただ、連作の一部として読むなら、一首まえに「毛皮の下何もつけない女優さん獣の温さはほんものほんと」とちょっとセクシーな題材があり、一首あとには「青空に綿状の煙真っ白に朝の生ゴミ美空への旅」があって、夢醒めた朝のような生活感が出て来る。雰囲気としては「面影付け」のように、一連に漠然としたストーリーならぬストーリーが流れているようだ。この歌集を読むさいにも、あるいは前衛的な演劇の舞台や映画の映像の流れを追うようなリズムで追うのもよいかもしれない。

 

 一連の終りには、「二〇〇〇年遠い未来の気がしてたミレニアム・ベビー授かりました」「ウルトラマンと東京タワーのツーショット ペンキの夕日輝く昭和」とあって、舞台になる昭和から平成にかわるころの時代背景なども捉えている。

 

 思い過ごしかもしれないが、「結晶」するのは、あるいは「生」に関連しているのかもしれない。「結晶」は、それをほのめかした言葉かもしれない。と、すれば結晶したのは、花嫁かその周辺の世界とも取れる。ただし、あまり具体化、現実化して読んでしまうと、抽象画的な作品世界からずれてしまいそうでもある。一首一首は連作の中の作品ではあるが、また、そこから個々に自立する作品でもある。

 

 「ツーショット」など時代を表す大衆文化的な言葉を使う所は、『みだれ髪』の巻頭歌の「鬢のほつれ」などの言葉が、当時のポピュラーな俗謡のセリフを受けていることを思い出させる。

 

 ところで「大ガラス」の「ガラス」のイメージはどんなものかと、インターネットでポップ・カルチャーを調べてみる。

 

 と、検索にかかるのは、たとえば「ガラスの家」、これは人気のあったテレビドラマであるらしい。「ガラスの仮面」これは大ヒットしてロングセラーになったらしい少女漫画。「ガラスの十代」「ガラスの少年」これも人気のあったJポップのようである。いずれも、若い、ある世代の女性だと、知らぬものはないと言うほどの作品のようである。だが、このいずれも知らない私など、少しポップ・カルチャーに接しているつもりでも、この歌集が十分に鑑賞できないだろうと、ますます気後れがする。

 

 ときに短歌のあとに歌の注意書きのように固有名詞が小書きされている。そのうち高木仁三郎、大野一雄、中川幸夫、ベン・シャーウッド、『少女仮面』などは、私の知らない固有名詞だが、この歌集の作品が、具体的に、実際の現代文化につながっていることを示すものでもある。

 

  歌集の作者の「おの・こまち」は演劇界の人であるので、化石人類のような時代遅れの歌壇の人々とは違い、今のポップ・カルチャーの最中(もなか)にいて、どんどんそこから新しい水を汲み取っているのである。現代詩の世界で言うなら高村光太郎から萩原朔太郎へのような時代の変化が、いま、現代短歌の根もとでも始まっているかも知れない。

 

 頼もしいことである。

 

 

 

11月14日 小黒世茂 『舟はゆりかご』(本阿弥書店 2016年10月)

 

 さて、どう読むか。読み方にしばし迷った。

この歌集と前後して、やはり同じ作者が『記紀に游ぶー日本のわすれもの』(ながらみ書房2016年9月)を出版している。こちらは散文であるが、読みやすい文章なので、一気に、と言っても2日かけて読んだ。

この帯文には「現代と古代とを往還する稀有なる歌の語り部」とある。歌集の帯には「古代より風土と共に生きてきた日本人の源流を探索する歩みは続く。」とある。どうも、この帯の一文を取り替えてみると、歌集の内容が、より鮮明に見えてくるような気がする。

 

 歌集の最初の連作の見出しは「焼畑」である。

  粟・黍を黄金いろに実らせる山畑浄土へのぼりてゆかな

  切干の平家大根いただきぬ九州山系にとびかふ花粉

どうやら、九州の平家伝説のある焼畑耕作の村らしいところが舞台のようである。

 

次の「鍛冶炉」では、「金色に怒る鋼のかたまりの心(しん)を叩けと河内國平」とあり、舞台は別のようである。

『記紀に游ぶー日本のわすれもの』と『舟はゆりかご』照らし合わせば、歌の背景がさらに見えて来るかもしれないが、それでは歌の持つ雰囲気が壊れてしまうであろう。歌集は歌集で、独立したものとして読み進める。

 

  たちまよふ霧の出口かこれの世の置きざりとも見ゆ赤き鳥居は

  いつの日か失くせし磁石も文鳥もみつかりそうな森のふところ

  広矛(ひろほこ)に鏡ゆはへる舞庭(まひど)にてもうすぐ夜明けぞ地をふみならす

  広場にて枝集めればちさき火で焚くがいいぞと葉守の神いふ

  ひかへめに距離たもちつつ柏木のもとにお神酒をそそぎあふなり

  おな神の森を去らむよそらみみに千の銅鐸鳴りひびくなり

「おな神の森」のこれらの歌も、一首ずつ別々に見ることもできるが、それより前に、連作の中においてまずは鑑賞するのもよいようである。そうすれば、古代のある村における祭儀の一連が目に浮かんで来る。

 

  ぴーろろと鳴きたきはわれ 森にあるすべてが神になる冬の朝

  塞の神まであと十三歩きさらぎの雪に雨乞虫(かへる)のこゑきざみつつ

  雨乞虫ねむればあの世 雨乞虫がめざめればこの世 泥あつたかい

  人間をちよつと休んで泥のなか雨乞虫とならび夕星をみる

これは「雨乞虫」の一連から。「パソコンを起動させれば傘ひらきここで休めと紅天狗茸」などの作もあり、あの世が主体の短歌群ではあるが、ときにこの世があの世から瞬間的にのぞき見るかのように、うっすらと顔をのぞかせる。

 

そして、現実の「われ」と仮想の「われ」がどこで入れ替わるのか、意図的にその交代があいまいになっているかのようで、これも連作における幻想性をかもしだしているのかも知れない。

たとえば「亀卜」は、第一首目が「冬うらら 小さき翅がくるぶしに生えるここちに海峡わたる」と、「春うらら」ならぬ「冬うらら」で始まり、「小さき翅がくるぶしに生え」ているのが事実なら、これは幻想的な登場人物だが、それが、あくまでも「ここち」に過ぎないとすれば、そのように感じた「われ」に過ぎず、あるいは、飛行機で旅行している作者を思い浮かべもできる。

次が「対馬にはハングル文字の氾濫し赤やみどりの服着るひとたち」とあって、異国めいた光景ながら、これは現実の「われ」が見ている現実の光景と認識される。

「暗き森とほそき川との境界に数をふやして灯明ゆるる」など、幻想的であって、他界とこの世の境を思わせるが、そのような民間行事を見ているとすれば、祭りという非日常ながら、現実の光景を見ていると取れる。次につづく「和多都美」では、

  和多都美(わたづみ)の社に氷雨をうけながら陣痛のたうちしことも懐かし

  玉じやりに胎児かかへて来るひとをいつまでも追ふわれの眼は

  藻の影のゆるるに似たる森のなか磐座にぶく動悸をうちぬ

  内耳といふ迷宮の奥にふたり子の産ごゑいまも泣きやまぬなり

と、神話のストーリの部分を思わせるような物語があり、この「われ」は、たとえば『古事記』の豊玉姫のような女神を連想する。

 

  海神へつづく鳥居をぬけるとき異国の声ごゑ寄せては返す

ここは、そうした神話の世界を抜けて、つまり幻想が覚めて、異国からの旅人の多い対馬の土地にもどった「われ」が立っている。次の「うつつ世をはなれ対馬に立つわれに三十一ヶ所砲台跡マップ」でこの対馬の旅の作品が終る。

 

どこまでが眼前に見ている光景で、どこからが心のなかで想像していることがらなのか、民間行事や民間伝承と、作者の心象や幻想が混然としていて、分明でないところが、文学的に特に快いと思うのだが、あるいは、そうした作品世界を拒絶する読者もあるであろうと予想される。

 

歌集を三分の一近くのところまで進むと、「舟はゆりかご」の一連があって

  実母には抱かれしこと継母には背負はれしこと 舟はゆりかご

  笑ふこと怒ることなく夜の沖をみてゐし小さき父を忘れず

とあって、日常世界の目で見た、作者の父母や近親者が、描かれてくる。現実性が強くなってきて、ほっとする読者もあるかも知れない。

 

あと、三分の二ほどのページが残っているが、すでにブログにしては長く書いてきたように思うので、あとは、感銘を受けたなかから、いくつかの作品をあげておくにとめる。。

 

  お役所の廊下のなかに川ありぬ向こうの岸を老人が行く

  はつなつの車両に眠るわれを脱ぎ次の駅より蜻蛉(とんぼ)となりぬ

  メラミンの食器にシチューは温かく空の廊下を天使ゆきかふ

  地雨ふる湊通りにマネキンの裸体寄りあふ倉庫のありぬ

  お雑煮には難波の野菜がよろしおます 河内れんこん田辺だいこん

  同意書にわが名をしるし検査室へ姑を見送りパジャマをたたむ

 

あの世がこの世に、この世があの世に、どこか溶け合っているような気がしながら読んだ。読み手によっては、もっと現実的な読みをするかもしれない。もちろん、現実をとらえての写実力もしっかりとした作者である。

 

  

 

11月8日

 

  道浦母都子『花やすらい』(角川書店20089月)

 

はじめて聴講した大阪歌人クラブの講演会で、道浦母都子氏の講演を聞いた。そのときの資料のプリントの中に、『花やすらい』の次の一首が書かれていた。私は氏の歌集を買ったことはなかったのだが、この一首を見て、この歌集を買った。 

 

  一粒の錠剤をもていざなわれ眠りの駅で見て居り白雨 

 

うまいなあと思う。「一粒」「眠りの駅」「見て居り」「白雨」などのことばの繋がりに感嘆した。

  

さて、歌集の作品をページを繰りながら見てこう。

 

  夕さりの空の濁りよ相聞のほのけき記憶かき消さむとす

 

「相聞のほのけき記憶」とは、王朝の女性たちが詠み送ったり送られたりした歌と、その恋のあわい記憶であろうか。歌集の一首目にして、「えっ、これがこの作者の作品?」と思った。

 

この繊細さは、意外であったが納得もできる。

 

  花やすらい風やすらいの幾星霜過ぎて阿騎野の春夕まぐれ

 

「幽玄」という中世芸能の言葉を思い出す。この過ぎてゆく時間のあわあわしさは、「母」を詠む時にさらに印象が深くなる。 

 

 

  雪虫が風花いつしか雪となり母の墓前に着く頃みぞれ

 

  とめどなく挽歌綴りて亡き母に甘ゆる夜を水仙の雨

 

  梅雨水輪踏みつつ行けば亡き母の棲む水駅に至りつくかも 

 

 

そう言えば、挽歌の雰囲気が強く感じられる歌集である。

 

  しむしむとしたたりやまぬ桜花ひと失いて二十日目のさくら

 

  病室は蜜の明るさ生き残るわれらたっぷり涙を放つ

 

  鮮明な声にて届くともどちの二時間前の自死の知らせが

 

  私より若きが逝きてわたしより美しきひと逝く梅雨冷え深し

 

友の死は、「私」の外にあるのか、内にあるのか。

 

  踏切に鳴る警報機の音あましふとしもひとを呼び寄すような

 

  おずおずと沖へ去りゆく引き波のように静かに来ている老いが

 

歌集はこの歌で閉じられる。 

九年ぶりの歌集刊行とある。「あとがき」に「自分が壊れるという感覚を抱いた七年前の秋以来、言葉は怖れの対象となった」とあり、一種の精神的な危機を送られたことが知られるのである。

なお、この文章は私のきままな感想であって、歌集の研究ではない。その一面を、それも特に私の好みの部分に明かりを向けたものであって、研究や評論ならもっと違った多面性を見るであろう。他にもいい作品が多いが、そのうちの数首を挙げさせていただく。

 

    桜森暮れきるまでを見つめ居り鳥の時間の戻りくるまで

  くれないの椿がひとつ三(み)つ四(よ)つ落ちて笑いて天を仰ぐも

  突風がヘップサンダルを裏返しベランダを過ぐも文字書く明けを

  自転車の少女をふとも見失う開かずの森と呼ばるる森に

  東京より還り来たりしからだには難波摂津の時間のやわさ

  ファックスとメールで済ませ人間と声を交わさぬ一日終る

 

                            ◯

 

道浦さんとは、一度ゲストとして来られたサルの会(関西版昭和十九年生まれの会)のあとのお茶会で、ひとことだけ言葉を交わしたことがあった。もう、三十年以上の昔であろうか。 

 

 

11月7日

 

  角宮悦子『白萩太夫』 (短歌新聞社200312月)

 

本棚からこの歌集が見つかった。3、4年前に買ったもののように思う。まだ付箋が付いていないので、たぶんまだ、読んでいなかったのであろう。 

 

  遠街のどこかの部屋で鳴っている真昼の部屋の目覚まし時計

「遠街」は「おんがい」であろう。短歌では見たことがあるが、他では見たことのない熟語である。

遠くの街、あるいは街の遠くの意か。目覚ましの音など、聞こえるはずのない遠さであるが、それがふと聞こえてくるのは、角宮悦子独特のシュールな空間感覚であろう。 

 

  花嫁の馬車もゆきたる野の道は弔ひ道でもありて 昼月

嫁入りの光景が、早送りした映像のように弔いの光景へ続く。「昼月」という存在感の希薄な、それでいて何か異界の風景にも同時に存在しているような、不思議な点景が空にかかっていて、白昼夢のようでもある。 

 

  廃線のバス停のわき石のうへかまきりしんとかまきりを喰ふ

石の上でカマキリがカマキリを食べている。たぶん、交尾後の雌雄の光景であろう。これだけで短歌一首に詠むのに十分な風物であるが、さらに背景に、「廃線のバス停」があって、奥行きが深い。何か抽象的な心象を思わせる映像でもある。静かである。 

 

  掘立小屋のめぐりに南瓜の花が咲き水子地蔵のあかき前垂

これも、映画の一情景のようでもあり、やはり静かである。「水子地蔵」から、何か遠く過ぎ去った時間を感じさせる。あるいは死後へと続く空間を。 

 

  老朽の三階建のアパートがへばりついてる運河のへりに

くずれそうな古いアパートが運河の縁に立っている風景も、絵になる。

このアパートに暮らした何組かの家族は、おそらく、みな去っているか、老夫婦が一組、残っているだけであろう。去った人々にとっては、このアパートと運河はもはや一つの心象風景である。やはり、奥行きのある象徴的な映像である。 

 

  夕焼けがみるみる畳をそめるときひとつぶの種うたひはじめる

夕焼けによって、異界の情景が呼び起こされたのであろうか。歌う「種」は、どう考えてもこの世のものではないのだが、にもかかわらずリアルである。 

 

  男らが五人がかりで笑ひつつ泣く雌豚を(あや)めてをりき

この惨劇は、何やら猟奇的な雰囲気をともなっている。異界の映像には、猟奇も混じりやすい。このハードボイルドさは、日本の風景というより、アメリカ西部の光景のようでもある。 

 

  興行師にさらはれゆきしあの少女 硝子の玉の髪飾りつけ

さらわれて、芸をしこまれる少女。なにやら十九世紀的な悲劇の匂いがする。ゲーテのミニョンの日本版か。もっとも、さらわれ、売られる子供は、この二十一世紀にも地球のどこかに居るが、それは別の話。 

 

  晴れわたる空のかぎりのひとところきつね雨降る橋を濡らして

  渚まで宵待草の咲きみだれ情死のありしところでありぬ

  てのひらにのせてふんわり蝶を見る あなたの母も地獄にゐます

  この道をゆけばいまなほ桶屋ありわれの棺桶あがなひにゆく

  この空のつづきの慶尚南道の街に小屋掛けサーカス一座

  ふたたびはおそらく会ふことなき人と葬祭場の中に屯す

 

この異界の近さ、死の近さ。不思議にさびしくて、どこか怖くて、しかも奇妙な恋しさの感じられる時空である。これらの作品は、短歌を越えて「詩」の領域に進んでいる。

 

 

    

    藤井順子 『野紺菊』  (現代短歌社 20165月)

 

 実は、この歌集、近藤かすみ氏のホームページを見て、阿部久美歌集と同時に買ったものである。「気まぐれ徒然かすみ草」の527日の記事に「二十歳代の娘さんの自死が詠われていて、歌集の核となっている。」とあるのを読んで買ったのだが、それゆえにまた、長く読むのをためらっていた。  

 この歌集には家族を詠んだ作品が多い。全体的に家族詠から成り立っているとの印象を受けるほどである。 

 

  膝の上に坐る息子もいつの日か離れてゆかむ遠くの街へ  

  末の子は兄のお下がりの服を着て中学生の顔となりたり  

  久々に帰り来し子が古びたるサッカーシューズ提げて出で行く  

  プッツリと音沙汰なしの息子から母の日ひとこと電話の掛かる  

  末息子に電話を掛けて元気かと問えば元気と答えて終る  

  子の結婚の案内状のありがとう五つの文字はさよならに似て  

二人の息子さんのそれぞれの個性と生育がうかがわれる。 

 

  仕事終え帰り来し夫深ぶかと溜息をつき卓に坐れり 

  外側のいたく禿()びたる靴履きて夫は仕事に出でて行きたり  

  この朝も仕事に出づる()が後に付きて夫の送りてくるる 

  缶コーヒー二本をさげて元職場事務所に夫入りてゆけり  

猫が好きで、家の飼い猫ばかりか、野良猫をも可愛がる夫、囲碁が好きで公民館では先生と呼ばれるほどであることなど、家族のあれこれが描かれている。 

 

 母や義母、すでになくなった父、義父、祖父、祖母など、さまざまの家族が作品に書かれている。 

 

 そして「私」。この我はいわゆる等身大の作者そのもののようであり、当然のこと随分たくさんの作品に描かれている。  

  秋の陽のぬくみ背中に浴びながら子等の汚れし靴洗いおり  

  雨降りて鏡の中にいつよりか若さ遠のく顔が映れり 

  母親を三人持ちて母の日に花束三束送り届くる  

  スーパーの夜業を終えて入口の回転名札ゆっくり戻す 

 

そして、印象としてはもっとも深く描かれているのが、なくなった「娘」である。歌集の巻頭歌と最終歌に娘さんが登場する。 

 

  ひとり娘出でゆきし夜半にしてオリオン星座見上げて立てり  

  野紺菊群るるむらさき丘の()(むすめ)の墓まで野の道をゆく  

歌集のあちらこちらに「娘」と、対面する「私」が描かれている。「母の処より益田高校に通う」「帯広畜産大学に入学」などの詞書もあって、島根県の益田市から大学は遠く帯広畜産大学に学んだことが知れる。

 

  なぜ生んだ()を責めたつる(おさ)()が今朝は仏壇に両の手合わす  

  仲悪き娘なれども夏物の白のバッグを貰いて使う  

  月々の命日来れば花を替え水替えてやる出来悪しき()  

  逝きし()は短き命この世にてラフマニノフを弾きてくれにき  

この三首目のように亡くなった娘さんを、親しみゆえではあろうが悪く言っているような表現があってとまどうが、これは娘さんが自死したことに関わっているのであろうか。短歌では表現しきれない背景があるのであろう。 

 

 歌集全体が娘に捧げるレクイエム(鎮魂歌)となっているような趣きがある。こうした歌風の歌集では、事実の重みが作品の重みとなる。現実の登場人物や出来事が、歌集全体を読むべき内容のあるものに仕立てるとも言えるかもしれない。

 

 文語定型の、淡々とした表出を基本にしているようである。

 

 「あとがき」に「三人の子育てに少し手が離れた頃、世の中からひとり取り残されているように覚え始め、婦人雑誌や新聞の読者欄に載っているに短歌に目を通すようになりました。」云々とある。「牙」に入会、現在は「八雁」に所属。島根県益田市在住。

 

 

 

1011日 

 

      石川幸雄「別冊HASU act2」(詩歌探求社 201611月)

  

「石川幸雄自薦100首」とあって、「Why We TANKA ――過ぎ去りし日々のうた」と副題が付けられている。 

このようなパンフレット型というのか冊子型というのか、てごろな個人短歌誌を(この歌集の場合は装幀をはじめ短歌誌というには立派すぎるが)、昔、いや今も発行できたらいいなと思っている。 

 

さて、この歌集は「『解体心書』と『百年猶予』から五十首ずつ選び合計百首とした。」とあるところから、元になる歌集のあったことが知られる。 

 

  コンタクトレンズが君の角膜に貼りつき動く様を見ている 

このリアルさは、もう一歩のところでスーパーリアルやシュールにたどり着きそうである。自分のコンタクトレンズを持っていればそれが歌の素材になりそうだが、相手のコンタクトレンズまでは見たことがないので、題材になるとは思っても見ないことであった。すぐれて現代的な描写と言えようか。

 

  海よりもなお背徳の心地する湖にふたり遊ぶというは 

「海」と「湖」を比較して、このような感想を持つとは、これもまた思ってもみないことであった。なるほどと、みょうに感心してしまう。 

 

  はずれないものとしていし知恵の輪が朝の机上に解かれていたる 

自分ではない誰が解いたのであろう。みょうに寓意を感じる情景である。写実の極まったところにあるものと言えようか。

  

  庭荒らす猫が近づかないように毒餌を撒く花愛でる人

花愛でる人がやさしい心情とは限らない。自分の愛でる花を守るためには残酷をいとわない場合もあるだろうし、その人の性格として、嫌な毒をもっている場合もあるだろう。いや、そういう場合もあるのである。 

 

  生きるとは罪なり余程永くとも百年猶予 のちには死刑 

なるほど、そういう見方もできるのかと思う。そう思えば少しは気が楽になるように思える。 

 

  血統がモノを言うのは競走馬だけに限らずあらかたすべて 

スポーツ関係の能力では、最終的には遺伝がものを言うことが多いようである。しかし、環境や運が同じレベルにあった場合という条件がつく。すぐれた潜在的能力があっても、あるいはそれゆえに却ってつぶれてしまう、あるいはつぶされてしまうことが多いであろう。しかし、頂点をめざすような場合は、最終的には血統がものをいうことが多いのであろう。 

(血統を遺伝子とは限定せず、親の財力だとか権力、人脈、名声などに広げて考えるなら、もっと決定的なまでに大きな力を及ぼす場合があるかもしれない。一見、あるいは建て前は、自由平等の現代の日本社会でも。) 

 

  深海1000メートルに光りたるキンメを思い他は思わず 

キンメはある種の深海魚の光る目であろうか。これも焦点を絞りに絞ったところに捉える無機質的なスーパーリアルを思わせる。人も言葉で思う以前に、つまり概念をもって思いをめぐらす以前に直観で捉えたみょうな物事に気づくこともあるのである。それを言語化できるのは、詩歌の力である。

  

この歌集は、短歌誌「蓮」に同封されたもの。「蓮」の編集ノートに「デザインに少々手間取り、時間もかけた」とあるように、いろいろな絵や写真もコラボレーションとして歌集にふくまれる。絵や写真は言葉以前のところを捉えることが少くなくない。

  

927

 

   原 詩夏至『ワルキューレ』(コールサック社 20169月) 

 

あとがきから推測するに、ほぼ12年間の作品を集めた歌集である。 

 

  遂にマウスも死に絶えて燐光に浮ぶ実験室地下深く

 

  ジャイアント・ロボ格納庫鉄筋も錆びてこの惑星もう無人

 

12年前だと、こうしたSF短歌は失笑をかいかねなかったが、今はどうであろう。相変わらずかも知れない。氏もかつて参加しておられた「鱧と水仙」で、私がSF短歌を発表してから二十余年がたったが、相対的に短歌人口の多い私などの世代では、相変わらずというところか。

 

しかし、仮想空間がすでに現実空間に混ざりかけている今になって、ようやくスマホだの掃除ロボットだの無人爆撃機だのが、やっと短歌にも登場しはじめた。

 

もし、詩歌に未来を予言する能力があるなら、二十年後、いや、五十年後の地球という廃墟を詠んで当然であろう。現実の上皮を撫でるだけが短歌ではない。 

 

  遠い異国の娼館のように煌めいてデパート地下菓子売り場

 

娼館と言えばヨーロッパであろうか。小説や映画にでも出てきそうな場面であるが、そのきらめきを比喩として、デパート地下の菓子売り場の明るさに例えている。

 

そのため二つの空間が同時に異界のようにリアルに見えてくる。 

 

  待っているのは君自身その夢の深みで君を待っているのは

 

「私」自身は夢の深みでようやく見出されるようなものかも知れない。現実の私は、仮面の上に仮面をかぶった、にせの私にすぎないかも知れない。

  

  柱廊に消えたキリコの輪回しの少女少女のまま秋既に

 

キリコの白昼夢のような絵画は不思議に魅惑的である。あの輪回しをしている少女が片隅から姿を見せているからだろうか。ありふれたようで、不思議な建物たちが、ありふれていながら不思議な影を落としているからだろうか。 

 

  都落ちした公爵が隠れ住む山荘を今過ぎて春風

 

映画の中の一場面のようだが、読み手自体が、ほらもう、その画面の中にいて、この山荘のドアを叩いているのである。いや、読み手自身が公爵かもしれない。 

 

  牛車ぎしぎし軋らせて権門が轢き潰す月下の水たまり 

月は煌々と照っているのであろうか。権門が轢き潰すのは水たまりに限らないであろう。夜中に牛車に乗って権門はどこへ行こうとしているのか、あるいは、どこからの帰りであろうか。この都大路は平安時代のものであろうか。異界の光景なら、現在にも在り得るか。 

 

  愛はもう言わずシーツをただ押し伸ばす俺たちに明日はないので 

これは、十九世紀あたりのアメリカであろうか。若い男女の、世紀末的な愛の逃避行を思わせる。もっとも、現在や、未来のどこかの現実にあることかも知れない。えがかれた空間は夢の中でのように、せまく限られている。そして、リアルである。 

 

  因幡の白兎みたいにゼブラ・ゾーンを呆然と夢の元カノ 

  首都のダークな地下世界しんと見据えて今輝くおまえの目 

「牛丼」という小見出しがある二十首の連作の内の二首。「牛丼」をめぐってさまざまの時代や場所を行き来し、いろいろな登場人物や牛が登場する。連作を一つの全体として鑑賞すると、さらにシュールに、さらにリアルに、見えて来るものがあるであろう。 

 

  若奥様の寝室の鍵穴を覗くメイドの尻春燈 

ヨーロッパの映画の一場面のようでもある。大きな邸宅で働いているこのメイドと交代したい気にもなるだろう(ドイツ旅行の茂吉じゃあるまいし?)。燈しは夜のもの、春の夜といえばそりゃあアナタ……ドラマは読み手の方で作り放題か。 

 

  車一つ待たせて静か晩秋の裏道の小さな蒲鉾屋 

非常識な金持ちのお嬢さんが蒲鉾を買いに来たのだろうか。あるいは蒲鉾屋の娘がお金持ちと結婚して、たまに実家に立ち寄ったのだろうか。車に乗っているのが男ならどうだ? 

晩秋の狭い静かな裏道がイメージに捉えられたら、読者冥利につきるというもの。 

 

  そういえばどんと真っ赤な提灯が燃えていた入口、この町の

 

もちろん。異界への「入口」であろう。異界のこの町はどんな町?なんとなく、中国風の町の気配がしたが、あるいは明治の遊郭かもしれないし、夜風の匂いを、よくかいでみることにしよう。

  

  チューブ垂らした敵の首ゴミ箱に捨てて初仕事のサイボーグ 

ごみ箱に捨てられたのもサイボーグであろう。いったい、いつの時代の路地裏のゴミ箱だろう。サイボーグにも勝ったときの喜びの感情はあるのだろか。アンドロイドならどうだ。

 

 もう、人間不要の時代かもしれない。

  

この時空を旅することのできる者だけが、この歌集の読者になれるであろう。そうでないかたがたには、残念ながらお引き取りを願うばかりである。(その際に、あの葡萄は酸っぱいなどと、去りぎわの聞き飽きたセリフは言わないでほしい)。

    

 

 

(今日11月8日、この欄のブログを書いていて、途中で一瞬にしてすべてが消えてしまった。あるいはマウスが何かに触れたのだろうか。多くはコピーが残っていたので、不十分ながら復元できたが、3編のコピーがまだだった。恐れていたことが起きてしまったが、歌集は手元にあるので、がんばって書き改めることにする)(さいわい、2篇はコピーしているのが見つかったので、あとは昨日書いたのと、今日、書き始めていた一変である)            

 

             (小谷博泰 ホームページ「つれづれなる日々に」)

 

 

9月24

 

   水野泰子『コンドルよ』 (201610月 私家版) 

 

水野さんがなくなってから、もう2年がたったのか、と思う。 

2006年に「白珠」に参加され、2014年の10月になくなられている。 

お目にかかったのは、なくなられた年の新年歌会の際にご挨拶をしたのと、もう一度、その何年か前の新年歌会で声を掛けていただいた、というより、ご質問をいただいたときとの二度くらいであろうか。

 

なくなられた年だと思うのだが、このごろ短歌ができないと書かれたお手紙をいただいた記憶がある。私の歌集についての礼状に添えられていた文面かもしれない。 

 

最初にお名前を知ったのは、白珠の新人賞候補を選ぶもとになる「三十首詠」に応募されていたときであろうか 

そのときは、作品のしっかりした出来から考えて、実力の確かな同人の方だとばかり思っていたのだが、あとで、準同人で、白珠に入会されてからそれほど年月の経っていない方だと知った。これが、強烈な印象として残っている。 

 

 さて、この歌集に収められた百五十首から何首かを紹介させていただく。 

 

  熱きざす瞼の奥にモノクロの万華鏡のぐわんとまはる 

2013年の「白珠」新人賞を受賞された年の作品である。見出しは「レーズンの粒」とある。著者略歴では、この年の九月に「乳癌が見つかり治療はじまる」とあるから、まだご病気を知らなかった時期の作品かもしれない。もし、三十首詠の作品の中から選ばれたものであれば、作られた時には、まだ癌は見つかっていなかったであろう。 

 

  警察官立寄所とあるコンビニに警官男女がおにぎり買ひをり 

  粗目せんべい齧つたやうな月のもと町内一周のジョギング終へる 

  ゴミ袋に放り込まれる瞬間にカタバミの種四方に弾く 

  土砂降りの車の中つて個室感たつぷりあるんだ泣け泣け泣いちやえ 

以上、同じく2013年の「レーズンの粒」から。この四首目など、すでにご病気の予兆のあってからの作品かとも思うが、「あとがき」にお母さんの若尾幸子さんが「自宅介護の舅を見送り」と書かれているように、何かと日常生活での心労があった時期のものかも知れない。現実生活と作品は、必ずしも直接に繋がるものではないが

 

 次にさかのぼって、二〇〇七年・二〇〇八年の作品が収められている。 

 

  居酒屋の閉店時まで逃げ切つた生簀の中の鯵たちの夜 

まことに、いっときの安寧の恐ろしさは、いかばかりのものであろう。「ひと晩をリラックスして過ごしたね砂出し終へた浅蜊をすくふ」。貝の砂出しは、現代詩などでも題材になっているが、近代短歌では、こうした、存在の残酷さは扱われなかった所であろう。 

 

  蟻んこのやうだと指をさされゐむそんな気がしてテレビ塔見上ぐ 

ふつうは、高い塔やビルの上から下界を見下ろすものであろうけれども、ひょっとしたら自分が誰かからみおろされているかも知れないと感じる。この視点の意外さがほかの作品でもみられ、苦いユーモアをもたらしている。 

 

  シンデレラを読みてやりつつ姉さんのイヂワル少しわかる気もする 

なるほど、もてない姉さんの気持ちによりそえば、いじわるする気持ちも分かる。分かってはいけないかもしれないが。 

 

  生け造りの鯵の両目が乾きたりそろそろ宴会終了となる 

意外なところを冷静に見て捉えている。ふつうだと気がつかないが、残酷と言えば、そうも感じられる、にぎやかな宴会の片隅での惨である。

 

  バーチャルの水槽置かるる歯科ロビー今日はわんさかピラニア泳ぐ 

控室のロビーにDVDの映写機でも置かれているのであろう。そこで映されているのが、歯の恐ろしげなピラニアの映像だというのが、ブラックユーモアめいている。 

 

  『虫の味』読みてわかりし事ひとつシホカラトンボは塩辛くない 

そりゃそうだろうと思うが、おかしい、おもしろい。虫の味など、昆虫をほとんど食べることのない日本の文化では想定外だし、まして「シホカラトンボ」の味を知りたいなどと、とぼけたことを考えることもない。 

 

  二十階の茶房に窓を見てをれば上から枯れ葉の舞ひて落ちゆく 

枯れ葉は上から下へ落ちるものだが、それにしても二十階の窓で、それをみるなんて、ふつうは在りえない。よほど強い風が吹いたか、上に屋上庭園でもあるのか。そんな馬鹿な、と思わせる所がユーモアである。 

 

次は2013年・2014年の作品の情景は、暗転して、闘病生活に入る。

 

  図書館に未知なるジャンル「闘病記」十冊、絵本の二冊を借りる

 

ただの借りた本ではなく、「未知なるジャンル」と知的に断ってあるところ、却って泣きたいような気持ちが伝わってくる。

 

  かつて吾のゐない世がありそのうちに()の無き世が来るそれだけのこと 

  一様に老後は来ると思つてた みなとみらいの海をながめる 

  病室の外の手すりにとまりたるヒヨドリこちらの様子うかがふ 

  死ぬまでにやりたいことを考へる ほそーくながーく子を見守りたい 

 

再び述べるが、作者は、201410月に47歳で永眠された。 

もうすぐ、三回忌を迎えることになる。 

 

 

  919日 

 

       夢野久作『猟奇歌』(青空文庫PDF 20163月)

 

小説家の夢野久作がけったいな短歌を作っているらしい、ということを知ったのは昔のことであった。

 

  駅員が居睡りしている 

  真夜中に 

  骸骨ばかりの列車が通過した

 

この作品が引用されていた。 

けったいな、と言うほどではないが、少し不思議な短歌である。 

本屋で歌集をさがしてみたが、見つからなかった。 

それからも、一、二度、この作品が引用されているエッセイふうの文章を見たが、探す手がかりがない。 

ところが、このあいだ、何かでそれに『猟奇歌』という題名が付いていることを知った。 

今やインターネットで探せば、簡単に本が手に入る時代となった。 

取り寄せると、「青空文庫」を基にして印刷した本であるらしい。 

しまった、青空文庫なら、インターネットでただで読めたのにと思ったが、パソコンの画面で短歌を読んでもバッとしなかったやろと思い返した。 

 

長い前置きになったが、歌集では、まず次のような作品群が目にとまる。

 

  殺すくらゐ 何でもない 

  と思ひつゝ人ごみの中を 

  闊歩して行く 

 

  この夫人をくびり殺して 

  捕はれてみたし 

  と思ふ応接間かな

 

自殺願望のある歌人は少なくないかもしれんが、殺人願望はそうはないのではなかろうか、と思う。

 

  わが胸に邪悪の森あり 

  時折りに 

  啄木鳥の来てたゝきやまずも 

なるほど、心の中の「悪」を詠んでいるのであるか。

 

煙突に登って行く人を見て、落ちればいいと祈る歌もある。この程度なら、自分に頭を下げさせた人が皆しんだらいいと歌った石川啄木とそう距離はないか。ただ久作の場合は、殺す動機が衝動的で理由らしい理由ではない。

 

  ピストルのバネの手ざはり 

  やるせなや 

  街のあかりに霧のふるとき 

啄木にとって、ピストルは自殺を匂わせるものであったが、久作にとっては殺人を匂わせるものであったか。ピストルの用法としては、しかし、久作の方に普遍性がある。

 

  自分が轢いた無数の人を 

   ウットリと行く手にゑがく 

    停電の運転手 動いている 

   さても得意気にたつた一人で 

短歌にしては長い。「動いている」から後が余分である。短詩のつもり、というよりまだ推敲中の作品なのかもしれない。

 

  すれちがつた今の女が 

   眼の前で血まみれになる 

    白昼の幻想 

「血」が多い。その分、グロテスクさがある。

 

  色の白い美しい子を 

   何となくイジメて見たさに 

    仲よしになる 

イジメの心理にこのようなものもあるか。いじめられる側にとっては、たまったものではないが。

 

  自殺やめて 

  壁をみつめてゐるうちに 

  フツと出て来た生あくび一つ 

ここらは、啄木に近いか。

 

  女を囮(おとり)に 

  脱獄囚を捕まえた 

  脱獄囚よりも残忍な警官 

これなど、近年のいわゆるブラック・ユーモア短歌を連想させる。

 

  自分自身の葬式の 

  行列を思はする 

  野の崖(*さんずいへんあり)に咲くのいばらの花 

殺人から自殺へと、歌集では次第に比重が変わっていくようである。 

引用したい作品は多いが、なんせ三行書きである。 

行数をやたら使ってしまうので、このへんで終わる。

 

グロテスクさや、ナンセンスさを強調しているような所はある。なんとなく「魂の痛み」のようなものを感じさせるが、短歌としては、心象を、くどく露わに言いすぎているようにも思う。サドの「悪徳の栄え」ほどではないが。

 

ちなみに、底本は、「夢野久作全集3」筑摩書房 19928月発行のもの。

 

夢野久作は1936年に亡くなっている。 

 

 

  914 

 

     森恒岳 『遺伝子の舟』(20163月 現代短歌社) 

 

  ミツバチがキュウリの花を訪れぬ やがて役目を終える雄花に 

  女性器のごとく湿りしペチュニアの花殻を摘む業務は明日 

「栽培実習」「生物工学」などの題があって、オッ、理系だなと気がつく。さっそく、動植物の捉え方が理系らしい作品群である。題材の捉え方が新鮮である。 

 

  培養液の中に緑の細胞が脈打ちながら芽吹き始めぬ 

  結局は命になれぬ実験用の未分化の細胞が成長をする  

  ここだけが小さく汚染されていて芽の細胞が崩れゆくなり 

 

生物学の実験関係の内容のようだが、興味深く感じて引用していて、いずれにも「細胞」の語が見られるのに気がついた。短歌ではそうは見かけない語である。「あとがき」に「農学出身で農業の教員として務めている」云々とある。「生徒らの実習後の静寂の牛舎の隅に反芻の音」などの作品から考えて、農業関係の高校に勤務しておられるのであろうか。昔、農業系の学部に進学したかった私から見て、遠いあこがれのような進路である。 

 

  自らの不幸を記す日記閉じ寒き職場を去る支度する 

  採卵鶏のケージのごとし教師らが職員室に昼飯を喰う 

  一切の書類にペンを入れぬまま無人島へと逃げ出したきを 

  木枯らしの中にわずかに聞こえたる最終列車の発車する音 

だが、職業として選んだ現実にあっては、あこがれのままのようなわけには行かないのであろう。それは、いずこも同じと言えるかも知らない。 

 

  父親の気持ちがポストに届けられ春の冷たい雨に濡れおり 

  まひるまの家に白菜きざむ音 見知らぬ女が母だと名乗る 

  三人目の妻を娶れる我が父の屋根に冷たき雨が降りつつ 

  立ち枯れの松ほど老いた我が父の死を見届けよ新しき母 

父親との関係は暗い。「継ぐ家のなくなり今朝は身も軽く無菌の種を播く培養土」「出目金の黒きを砂に埋めに来て息子としての役も終えたり」とある。過ぎ去った「父」との軋轢は、歌集に陰影を付けている。

 

思えば、明治後期から大正初期にかけてを一つの頂点とする近代短歌では、なぜか作者の父については、すぐれた短歌作品が思い浮かばない。現実には家父長として「家」に君臨していたはずの「父」であるが、歌集ではおおむね影が薄い。「死にたまふ母」はあっても「死にたまふ父」はない。 

「父と息子」という文学上の重大テーマーも、家という大家族体制が崩れ始め、父が君臨できなくなって来た現代の短歌になって、徐々に、あるいは急に、目立って現実の様相を顕して来たように感じる。調べたわけではないが。 

 

  アスファルトを剥がす工事の道を越え妻は苺を買いにゆきたり 

     里芋の青き葉のうえ水滴のレンズの中を妻が横切る

   たらちねの母となるべき身のうちに日ごと変化を遂げゆく妻は 

  キッチンにセルリの青き匂いして君を待つ夜にスープ煮ており 

  豊かなる明石の浜に妻と来て水辺の鳥と日を浴びており 

代わりに新しい核家族の、明るい夫婦生活が立ち現れる。「研修の宿より出ればオリーブの木はいっせいに実をつけており」など、写実ではあるが、心の内の明るさも表している。

 

次々と若い世代の歌が立ち現われ、豊かな実りを見せて来るのは、うれしいことである。 

 

作者は兵庫県の加東市の在住。近く、歌集の批評会がある。

  

 

  2016912日  

  

    「やまなみ」 2016年9月(松岡裕子代表) 

 

        白珠皐月短歌会・信貴短歌会・木綿短歌会合同歌集 

 

去年の98日に紹介した「やまなみ」が25号で終刊号となった。昭和63年の創刊である。信貴短歌会の結成が昭和54年という。

 

  おだやかに日に光りゐし噴水の時をり激しき風にもつるる  松岡裕子 

  同窓会に集える人ら先生より年上に見ゆる生徒の増えて   幸田久美子 

  給油して掌に受ける釣り銭の驚く熱さ百日紅咲き      萬藤照美 

  いつとなく荒地となりし田畑には介護施設のバタバタと建つ 吉村カオリ 

  余命をば三年近くも伸ばしたる友の逝きけり秋晴れの朝   池田芳子 

  店に入りコッペパン一つ盆に乗せレジに向かへば知り人に逢ふ 池永幸子 

  庭草を引きゐるわれに付きてくるせきれい一羽尾を振りゐつつ 岩本慶子 

  ばあちやんと誰かに呼ばれ目の覚めぬ生後十日の赤子の側(そば)に 上田千枝子 

  新聞を替えてひと月ようやくに紙面に慣れてまず読む漫画  岸川治枝 

  「あら元気?そっちはどう?」と話し込む不思議な夢で亡き友に会う 畑野浩美 

 

42名の参加。 

 

ちなみに、「白珠」の今年9月号の「歌会報」を見ると、6月に信貴短歌会例会が12名、皐月短歌会が10名、木綿短歌会が10名の歌会出席者を数えている。 

 

もちろん、歌会はこれからも続く。 

  

   2016829 

 

     阿部久美 『弛緩そして緊張』 (砂子屋書房 20003月)  

         リリース アンド コントラクション 

 

この作者の第一歌集が読みたくて、古本屋から取り寄せ、今日、手にした。 

 

ガーン、第二歌集とはずいぶん違っている。 

 

  いさかいをやめぬ父母いた春を今もむかしも春を 悲しむ 

第二歌集の私の、読みは間違っていたのだろうか。 

 

それにしても激しい。 

まるで『みだれ髪』(与謝野晶子)を現代に持ってきて、男女の関係をむきだしにしたような恋愛歌集である。ただし、歌集の「私」は大人である。明治時代の星と菫の乙女なんぞではない。 

 

   どうしてもからだ傾く坂道をあなたに逢いにおりてゆく昼 

   影おぼろ薄いコートにくるまって月の遠くに男が帰る 

なんだか『桐の花』(北原白秋)の視点人物を、男から女へ逆転させたような光景である。 

 

   かの海を地獄と喩えし人に触れ黒きうねりの密度をおもう 

   降る雪を仰ぐ寂しきのどくびを優しく締めてあわれみくだされ 

読者であるブログ執筆者の私は、第一歌集よりもさらに一心にのめりこみ、一時間以内、いや四十分余りで一気に読み終えた。 

 

   さらにまだ低いところがあるらしく堕ちる夢みて目覚める快ぞ 

   唸ったり吼えたり罠にはまったり狼のようにさもしいわれが 

   首縄がつまり命の綱であるわが為体(ていたらく) 四つん這いとは 

   青い声まだ青い声その声が骨までとどくいたみこそ情事  

   触らせておくれと叫ぶわたしってサロメのように欲しがっている

 

抽象的な表現の中から漂ってくるのは、激しい快感と、頽廃めいた倦怠感と、陰に潜む憂鬱などが混ぜ合わさったような刺激的な香りとでも言おうか。読者として見れば耽美の世界だが、近代短歌の浪漫主義とはまた違った、現代的なリアルさがある。あるいはとらわれない露わで自由な表出ができていると言うべきか。 

 

  赤い靴履いたわたしはくるくると死際のゆめ美しかろな

  今すぐにおまえを見たい傷ついて傷舐めながら泣いてるおまえ 

赤い靴はバレリーナが履いてしまったあこがれの靴であろう。つま先立ちでクルクルまわっている自分は美しい。赤い靴を履いてしまったために死ぬまで踊りを止めぬこの「わたし」は、ナルシシズムの「おまえ」でもある。自分の傷を舐めながら泣いている「おまえ」は、自分の泣きぬれている耽美な情景を見たがる「わたし」でもあるか。 

 

  潮どきを海鳥がゆくあの人は束の間わたしの恋人だった 

  紫陽花の末枯れた庭に柔らかく陽はふりそそぎ秋はおしまい 

激しい肉体感覚をともなった、人生のいっときの恋の場面は終わる。終りを告げる。終わってしまう。耽美な性愛の季節は「おしまい」なのである。 

 

  まぶた閉じ人が眠りにつくように暮れてゆく海さびしきものを 

  季節風わが裸身に戻り来ようみほど深き愉楽たずさえ 

  いささかの未練残れば春の雪 喧嘩わかれのほうがよかった 

「海」も「風」も「雪」も、恋にほてった体をやさしくさましてくれるものでしかない。残ったのはリアルな夢か。 

 

  深夜バス通過するのみ銀色の雪にまみれて街眠りおり 

 

そして、夜の幕が下り、第二歌集の優しく穏やかな時空が次の出番を待つ。 

この第一歌集は、のちの第二歌集とは違っていて、しかもそれに引けを取らないすばらしい歌集であった。第三歌集が待たれる。 

 

        2016825 

 

     阿部久美 『ゆき、泥にふる』(六花書林 20168月)

 

ほかの方々のホームページの歌集紹介、歌集評を見て、その歌集を読みたくなることはある。 しかし、それは禁則事項としている。 いただいた歌集がたまり、読もうと思っていても、つい、あちこちの部屋に分かれている本箱の、何処かへ行く方知れずになってしまう今、その余裕はない。 

ところが、近藤かすみ氏のホームページにこの歌集が紹介されているのを見て、ついに衝動買いをしてしまったのである。 

 

作品に、不思議に柔らかい抒情性、浪漫性がある。現代的な内容だが、調べが穏やかで、伝統的な近代、現代の古典的短歌、たとえば初期の北原白秋や初期の斎藤史につながる手触りがある。 

 

この歌集、きのう梅田の文化センターから帰ったら、出版社の六花書林から届いていて、晩飯のあとその(Ⅰ)と(Ⅱ)に分かれている(Ⅰ)の章をまず読んだ。

 

  遅くきた涼しき夏を立葵 終りまで咲くそれからしぼむ 

  ロシア菊ひと群れ咲いている道をさびしさは来る夕立のあと 

  冬に裂け冬に折れたる白樺に芽吹きをさせて四月が去りぬ 

関西とは少し季節が違っている。 奥付けを見ると、作者は北海道の留萌市の在住である。 

 

関西では立葵は、梅雨のシーズンに咲くが、北海道に梅雨はない。ロシア菊ということばは知らない。関西では見かけない菊なのか、あるいは別の名前で呼ばれているのであろう。白樺は見かけないし、その木が裂け折れるという冬の激しい雪嵐(?)も知らない。 

 

ここまで読んだが、疲れていたので、寝た(眠った)。 

 

夜中の一時過ぎに起きだして、その(Ⅱ)を一気に読んだ。 

 

(Ⅰ)は、三八ページ分、(Ⅱ)は一一七ページ分あって、分量は(Ⅱ)が圧倒的に多い。 

 

  花カンナ九月の風に咲くさまの優しき背丈、明るき歩幅

  深秋(ふかあき)の水の底よりわれを呼ぶ銀貨に指は届かずてあり 

  わたしから剥がれて落ちて一枚の鱗が夜のひかりあつめて 

イメージの新鮮さもさることながら、この調べのやさしさ伸びやかさには魅せられる。 この明るい優しさは、「父と母みじかく添いぬそののちも花花咲きて枯れて歳月」とあるように、母がはやく若くして亡くなったにしろ、愛情の豊かな親子関係の中で育ったらしいことも一つの原因であろうか。 

 

  温いとも寒いともなく灯をつけるだれかわたしを借りにくるかな 

  薄き紙一枚燃やす火のなかに体が急ぐ入り口が見ゆ

 不思議な自己感覚である。あるいは時空感覚である。この歌集の中でも、きわだって前衛的な部分として鑑賞した。 

 

  人を待ち季節を待ちてわが住むは昼なお寂し駅舎ある町 

  灯のともる薄闇の街抱き寄せて海が最後に暮れてゆきたり 

町のたたずまいがよく表現されている。しかし、どこか心象風景のような雰囲気もある。海辺の港街、これは作者の原風景から続いているようだ。

  

「旅の荷を解いて思えばふるさとは実(げ)に暗暗と海に抱かれる」など繰り返し「海」が現れる。そして、「雪」も「海」も多様な顔を見せる。

 

「まふたつに鉛の心臓割るほどの寒さのさなか街ひとつ消ゆ」文学的な表現ではあるが、冬のこの寒さは、関西では想像できない寒さである。  

 

  停泊の一艘あれどまぼろしか雪を振り向く父にあらずか 

  古い窓ふぶきに耐えている音の記憶に父母の惨たる若さ 

  きさらぎの母の忌日の幾めぐりどの日も晴れて況(ま)して雪降る 

 

 父母がよく詠まれる。「背を向けて歳月のなか孤(た)つひとが母親だったりあたしだったり」とあって、先に書いたように、母は既になくなっている。そして、どこか私に一体化しているような雰囲気のときがある。

 

両親の間にも親子間にも、どろどろした葛藤などはなかったように見える。歌風により現実にあったとしても表現が避けられているか、現実にも母親があまりにも早くに亡くなったため、家族間の葛藤など起こり得なかったのであろう。それだけ、寂しさが強く感じられる。

  

  樹の下につづらのような蜂の箱やがてつづらに花びらは降る 

  いっぺんにさびしくさせる歌がある靴屋に靴がならぶことさへ 

  実をつけて草揺るる候 読み捨ててほしいと添えて手紙一封 

  黄昏がうつくしきもの見するなりまちのほとりのゆきちがう影 

  こおろぎが鳴いているなり三時半やさしき青は窓の内外 

  今日了えて窓閉ざすとき聞こゆべし美笛峠の霧雨のおと 

  未来世のごときむかしとおもうとき猫ほどのわれないて居るかも 

こうした季節の光景は、行ったことのない北欧などを、ふと思わせる。やさしい夏と厳しいふゆ、その間にあって穏やかにしみじみと、そして、あわただしく過ぎるであろう春と秋。愛おしい季節たちである。 

 

一九九九年から二〇〇八年ぐらいまでの作品をまとめた第二歌集。これからの歳月、どのように歌に詠まれる情景が展開していくのか。未来もまた、悠久である。

 

 

 

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