歌集との出会い

 

    8月12日                         評 小谷博泰

   楠 誓英『青昏抄』    2014年7月 現代短歌社

 

  知る者のこの世にゐない校長の胸像部屋の隅に置かれぬ

昔、功績があって、校庭の隅にでもたてた胸像であろうが、そのことを知る者もいなくなると、その存在が浮いてしまう。部屋の隅にでも置いておけということになるのであろう。死後に執着することの空しさを……感じるほどでもないところが空しい。

 

  陽だまりの森の奥処に朽ちかけた鹿の角ひとつ落ちてゐました

この角を持っていた本体の鹿はとっくに死んでいて、消えてしまったのであろう。その後にいつまでも残っている角というもの、空虚と言えば空虚である。しかし、やがては自然の中で土に帰る安堵の思いを感じることもできる。悠久の時を思えば。

なお、旧仮名遣いを使うと、作品が立派に見えることもあるが、口語傾向の作品では不自然な感じがすることもある。この歌集なら現代仮名遣いでもよかったかもしれない。

 

  密林の夜を背負ひて灯の下に大カブト虫売られゐるなり

この大カブト虫は外国から運ばれたものであろうか。たんなる自分としての存在だけでなく、それを存在させていた密林をも背景に存在させているのである。作者は僧門にいる者ゆえ、存在というものに深く感じることも多いのであろう。もちろん、阪神淡路大震災でお兄さんをなくされたことは重い。

 

  アンモナイトの入りたる壁を添ひゆけば海中他界のやうな地下街

他界への連想が働きやすいのは、存在について、そして死について思索することが多く、他界がこの世に近く感じられるからだろうか。

 

  売れのこつた小鳥がまぶたを閉ぢてゐる 光の止まつた夕ぐれである

「光の止まつた」は、表現として微妙であるが、思索の深みを感じさせて成功しているように私には思われる。

 

  カサカサと燕の死骸あらはれぬ夏休み明けの教室掃けば

どのような事情で教室にまぎれこんだ燕であろう。だれもいない教室の中でどのようにして死んだのであろう。巣には残された家族がいたのだろうか。「カサカサと」という表現の伝える、ひからびた存在の軽さから、これも感じさせるところは多い。

 

  風鈴の音が止まりて死の路地に男の霊とすれ違ひたり

これはいつかは自分の身に起きることかもしれないと思えばまた、すごみを感じもする。「死の路地」はあの世とこの世の中間を、音のない細道として具象的に表したものであろう。それが現世と同一の空間かもしれぬところが恐い。

 

  金堂の黒き柱にばうばうと地獄の影と吾とが映る

宗教的思念によって見えて来た情景である。形而上学を越えたすごさがあって、言葉を失う。

 

  大群の魚の過ぎたる後の空 いまだ乾かぬ路地を通れり

これも、この世のものとも思えぬ光景である。いよいよ存在が、真実の奥の世界に達したようである。

 

  換気扇を止めればカタンと音のして私は独りであつたと気づく

換気扇の音がやんだ、その一瞬のうちに「私」は他界から戻って覚醒し、覚醒したがゆえに現世の、ともに存在する者のいない、他界とは別の意味で孤独な自分に戻ったことに気づくのである。もっとも、他界からの覚醒でなくとも、このような状況は生じるであろう。聞こえ続けていた物音がやんだときに感じる自己という存在の、孤独感とでも言おうか。微妙なところをよく捉えている。

 想像力にも思索力にもすぐれた作者である。この両方の能力にすぐれた作者が、これからどこまで進んで行かれるか、期待するところ大である。

 

 

     8月3日

   徳橋兼時『エチカ』    2007年7月 青磁社

 

何のはずみか、とつぜん、この歌集が現れた。

――ここのところ、書架の整理ができずに、気ばかりあせっている。

 

歌集の著者略歴に「短歌結社をいくつか経て現在『白珠』所属」とある。この歌集はいただいた折に一度は読んでいるのだが、なんせ、仕事に忙しい時期だったので、作品を詳しくは読み返していなかったように思う。そのような歌集は多いのだが。

 

  湿りたる阿弥陀御堂の破れ縁に幼きへびのわれを窺う

  草蔽う夕陽ヶ丘の家隆が塚より遙かひかりの海見ゆ

  高円(たかまど)のほそき路地には土壁の崩れしあたり萩の花散る

作者は大阪在住である。大阪や奈良の風物が詠まれいる。ときに、関西の伝統的な風土を感じさせる。

 

  鉄橋の下にゐて鉄の軋む音聴くは遙けき昭和のごとし

  街なかの道路予定地陽のさしてヒメヂヨヲンなど揺れる秋です

  地下鉄の電車が地表に顔を出すところふくらむ水にゆりかもめゐる

特に大阪を詠んだ作品には、この大都会の風物のとらえかたに共感させるものがある。なんでもない日常性があって、これが現在だという当然性のなかで、ほのかに詩的な認識を覚えさせる。

 

作者のすぐれた個性が窺えるのは、まずは次のような現代の人間模様を捉えた辛口のユーモアであろう。

 

  追ひやられなほ追ひやられホーム端おつこちそうな喫煙所まで

当今では、すでに落っこちてしまっているかもしれない。

 

  車中にてやをら取り出すコンパクトあなたの魔法はもう効いてゐない

  六月の改札口を圧しひろげははなるバスト街へ出でゆく

「魔法」からふと、昔の少女アニメを連想したが、それだけの浅いところでは終わっていないのであろう。「ははなるバスト」は、大阪らしい情景の捉え方だなと思う。だが、女性人口の多い短歌界では、女性を登場人物にした笑いは、ちょっとヤバい?賛嘆の気持ちで述べていても。(にもかかわらず、私もやらかしてしまいますが)。

 

  うす暗い座敷の畳に密議など僻目を寄せてしていたであろう

  トイレとはびつくり箱のごときものむくつけき男ぬつと出でくる

  そこにゐてティッシュ配りでもしてをれと云はれてそこに立つにあらずや

このあたりは、おおむね当たりが柔らかくて、いっしょに笑っておれる。もっとも、この笑いは、声をたてない苦笑というところか。

 

  歌詠みがみな善人に見える日は一度痛めつけてやらねばと思ふ

これは、声をたてて笑うことができるが、笑った後で、そっとあたりを見まわしたりして……。

 

今はもう「白珠」で、この作者の作品を見ないようではあるけれども、なお、この歌風の進展に期待している。

 

 

 

 

歌集との出会い 8月2日(2) 

 

   井辻朱美歌集『クラウド』 20147月 北冬舎

 

地球上に未開の地だの秘境だのという場所はなくなっても、あとは人間の頭のなかにそれが残っている……という記事を読んだのは、まだ学生だったころではなかろうか。

 

その予言通りに、小説、映画などでは、頭の中の秘境が盛んにえがきだされる時代になった。だが、私小説が売り物にする貧乏語りなどはいち早く真似したくせに、SFや異界ものやファンタジーなどは、小説家が書くものであるとして、歌人は相手にしなかった。貧乏語りは尊んでも、大衆文芸やサブ・カルチュアーめいた分野の話は、侮蔑の対象にしか、ならなかったのである。短歌こそ大衆文芸であり、かつ皇室行事お抱えのサブ・カルチャーであるのに。 

 

現在、ファンタジーという分野に歩を進めている歌人で、第一人者といえば井辻朱美氏であろうか。その第六歌集である。  

  カフェオレの色の鳥居をくぐり抜け別の風ふく時空へ出てゆく 

  それもみな夢のようにて暮れそうろう うなじの綺麗な日なたの竜たち 

  鱗ふかき樹より生まれし虫たちが睫毛のように風に吹かれる

 

結界を超えて踏み込めば、そこは夢の世界に近い場所である。一夜あければ、日なたに竜がおり、うっそうとした大木には、睫毛を生やしたような虫たちが風に吹かれている。 

 

  かわいらしい箒を浮かべて空に棲む 蜻蛉となづけられたる魔女属 

  翼竜のたまごをのせて回りつづけるギアナ高地の風のテーブル 

小さな魔女たちが空に棲む。逆円錐が回転しているようなギアナ高地の巣のなかで、翼竜のたまごが孵化しようとしていて、ときどきは親の翼竜が見回りに来たりする。 

 

  ゆるやかな太鼓腹なす地球の畑 トウモロコシが神たりしころ 

  フラミンゴがねむるかたちのコーンを手にまだ十年しか生きていない少女 

この歌集の世界は、現実世界のパラレル・ワールドでもあろうか。もう一つの地球のようで、ときにこの地球そのもののようでもある。 

 

  しゃくれ顎のシーサーたちが風を呑むむすうの瓦の屋根の上で 

  はたはたとつくも神らが飛んでゆくみえない江戸の火勢にあぶられ 

時間空間を超えて日本のある地域ともつながっているかのようである。 

 

  宇宙にはバオバブの根がみなぎって幾度も生まれてくるゆめの蟬 

  夢の嵩よりあふれる熱量 ダイノソアあまた孵して惑星若き 

別の星、別の宇宙、あるいは別の夢とも繋がっているのかもしれない。 

 

  非常時の愉しさに満ちて桜降る まだ切っていない遠くの目覚まし 

これは、現実のなかの夢とも繋がっているのであろう。夢の奥で目覚しがかすかになり続けているのに、「私」は頭の隅でそれを感じながらも、目を覚まさないままで、その非常時のなかで、桜がたのしげに散る夢のなかに居る。 

 

  パピルスの夕焼けをたたく杖の音 一番遠くの前世が匂う 

前世の前世の何百回も生まれ変わる前の、最初の前世とも繋がっているのであろう。 

 

  初期化されたたましいのように天心を吹かれてすぎる羊雲たち 

そして、パソコンつまり電脳のなかの世界とも結ばれている可能性ありである。現実という仮象を超えて駆けめぐる空想力にまずは魅せられた。この広大な時空を題材としないで、何の写実か。

 

 

 

歌集との出会い 8月2日(1)

  

   江戸雪歌集『声を聞きたい』 20147月 七月堂

  

詩のように行分けして書かれた「あとがき」のあとに「二〇一四年六月七日 電話を切ったあとに」と日付があって、これもなんだか詩のような一行である。「あとがき」のなかから一節をぬきだすと、

  画像で 

  何でもわかったようにおもえてしまう今、 

  生身から発せられる声が 

  とても大切に感じる。 

とある。だが、すでに古い時代から生きて来た私からすると、それでもなおかつ、歌集の作者の現実の存在自体が、映像の中の世界や夢の中の世界に隣りあい、あるいは溶けあってあるような感じがすることがある。

 

  ひとしきりマークX走らせて極彩色の森を見つける 

  幸福論書きし手紙をヤマドリの唾液のような糊で封せり 

    午後9時のニュース 二首 

  武器のないほうにむかいて一帯のひとらながれぬ死者がのこれり 

  あとずさるひとらの群れを境界とよぶときわれは火を意識する 

  蟬の声うけいれながら昼寝せり夏は死のにおいとだれがいいしか 

  落胆の感じなくなるまでじっと夏の窓辺に頬杖をつく

 

 これは「幸福論」という小題のもとにあった六首である。これを繰り返し読んでみると、精神的な現実が夢や映像のなかにあり、そして物質的な現実はその外側にあるかのような、「詩」的な雰囲気が私には感じられる。これは読者の私は、「死者」や「境界」がありありと物質的な存在であった近代の末に生まれていたからであろうか。その私にしても、この精神的な内側の現実こそ、「現実」であるかもしれないと感じる時代になっていることに気づく。 

 

  磨りガラスむこうにゆらゆら真緑のヤツデは冬の風にゆれている 

ヤツデは冬に目立つ植物であるが、にもかかわらず熱帯植物のような分厚い緑の濃い植物である。冬には花が咲くが、葉の大きさにしては小さな白っぽい花なので、磨りガラスを通すと、ますます目立たなくなるのだろう。磨りガラスを通したヤツデは、日常のものでありながら、よそよそしい存在のようでもある。いや、よそよそしいのは、それを見ている側の存在なのかもしれない。 

 

  玄関に帽子はぽとりと落ちたまま夕方の雨降りだしている 

現実の情景でありながら、映像でとらえた一場面のようでもある。落ちている帽子など、「あっ、帽子」と言葉でもって意識されるほどのものでもないし、そのあってなきがごとき存在が、映画の中の一コマのように、強いイメージとして働きかけるからだろうか。

 

  真夜中に書いた手紙の混沌を落書きだらけのポストに入れる 

この「ポスト」はひょっとしたら真夜中の夢の中のポストかと、錯覚させるだけの力がある一首である。「落書きだらけのポスト」など、ふつうには存在しないからであろう。

 

  公孫樹から鴉へ視線うつしつつ思い出はあわい未来のようで 

未来から過去へと時間が流れているようでもあり、時が円をえがいて循環しているようでもある、というのは理屈による判断に過ぎない。感性で読めばどうであろう。何か夢を見ているようななつかしさがある。 

 

  そんざいをけしてくしゃくしゃ歩いているブルームーンおまえだけおまえだけ 

自分の希薄な存在感どころか、存在というものそのものが希薄である。希薄な存在感のもとに思えば、なおさら愛おしい存在でもある。 

 

  わたくしがものを食べてる昼ひなか大型船が港に着いた 

  川岸の小舟のような雑貨屋であなたが買ってくれるハンカチ 

  二丁目の角のしらうめ明るんで別れまでまだ千年はある 

  とぎれつつトランペットの音のする春の霞のなかのくちづけ

  カーテンを透かす光を見つめてる目覚めたことに気がつきながら

知的でありながら抒情的でもあり、よく現代人の精神的な「現実」を詠みとっている。歌集を読んでいて、ふっと白昼夢のような思いがすることがあるが、それがなぜか、心地よくもある。

 

 

      6月28日

    菊川啓子歌集『青色青光』2014年7月 ながらみ書房

 

 

  虫喰いの穴よりみれば一本の老木の桜咲きあふるなり

現実とはかすかに違った異界を、どこかから垣間見ているような作品たちに魅かれる。虫食いの穴を、具体的に考えると、塀の穴、雨戸の穴、カーテンの穴、いや木の葉にあいた穴かな、などと考えられる。しかし、そうではなくて、要するに虫食いの穴なのである。抽象的かつ具体的にそのままのものとしてとらえれば、メルヘンチックな物語性も感じられるというものである。

 

  幼児とわかれし三差路さはさはと合歓はそよげり その日も今も

  不確かな存在の朝 新緑をしたたり落つる雨をみてをり

現実なのか非現実なのか、作品の基盤になるはずの、私という存在までがゆれているような作品たちに魅かれる。別れたままのいとしい「幼児」は、もう一つの世界に去った「私」自身かも知れない。不確かな存在は、「私」かもしれないし、目覚めて後の「私」の外界かもしれない。そよぐ合歓の花も、雨のしたたる新緑も、童話の中の世界のように美しい。

 

  穴を掘るひたすら穴を掘り進むかの夏の日の死者にあはむと

  紋白蝶の死骸にじつと見つめられ空へとつづく石段のぼる

生きているはずの自分の時間が、死者の時間とも交差しているような異空間にも魅かれる。非現実のようでありながら、リアリティーが確かである。夢の世界とも接点を持っているのかもしれない。

 「かの夏」は、1945年の夏とも受け取れる。紋白蝶の死骸と石段の取り合わせはリアルで、現実にありありと「私」が見ているもののようでもあるが、「空へとつづく」があることによって、がぜんシュールな絵画性や物語性をおびてくる。「私」が見られているものへと反転しているもう一つの不思議な時空がある。

 

  やすやすと狐も人も行き交へり雪ふかぶかと降りつづくなり

  辻々に見えざる鬼のゐる気配 柘榴くわつと朱き口あく

現実と異界の境にあって、異類が人界に混じわるような、やわらかで鮮明な情景に魅かれる。いずれもリアルな絵画性があり、ファンタジックともいえる映像感覚に魅力がある。読み手はそれぞれが独自の物語世界を紡ぐであろう。つまり、読み手の創造性によって深められる作品なのである。

 

  草むせるチャンパ遺跡の神殿に顔を持たざるシバ神踊る

  黒山羊も土間に寝そべる昼下がり小暗き戸口はひらかれしまま

外国へもよく旅しているようだ。異国の異界めいた、それでいながら懐かしいような情景に魅かれる。風物の表面をなぞっただけのような、たんなる旅行詠ではない。

 

心魅かれた作品を挙げていくと、まだまだあってきりがない。

 

  銀色のノブを廻せばたちまちに華やぐほどの修羅にもあはむ

異なる時空へと開く扉のノブをどこかに持っている作者なのであろう。

  

  一面につばな輝く野に遊ぶこの世の外の童子も交じり

作者は奈良の在住である。奈良もまた、異なる時空への通路にめぐまれた土地柄なのであろう。ただ、かつて十一年間だけ奈良に住んだ私では、その入り口にもとうとう辿り着けなかったので、うらやましい。

 

この歌集では、分かる作品より、感じる作品がいい。いかにも「ヤママユ」という豊かな土壌に育った、詩情あふれる歌集だと思った。

 

(おっと、この歌集の発行日は7月8日となっているが、私がタイムスリップしたわけではない。念のため)

  

 

 

  6月19日 

 

    尾崎まゆみ歌集『綺麗な指』 2013年2月 砂子屋書房 

 

 兵庫県歌人クラブが行う出版記念会に出席することになって、『時の孔雀』といっしょに買った歌集だが、同じ作者の歌集ながら、歌風がゆっくりと変遷して来ている。歌集名を比べると、端的に違いが見えるであろう。表現が分かりやすく、現代詩をことさら言わなくても、一般の短歌を読むように読めるのである。華麗なことばのきらめきが少なくなり、現実的な内容に近づき、おだやかな調べになっているのである。 

 

  はじめは深く墜ちて日差しにうつとりと抱かれる金の木犀時間 

それでも、初めのあたりには、このように妖艶で豪華で絵画的なイメージの残像が、余韻のように漂っている。 

 

  藪椿水の流れのなかほどにふと笑まふなりわたくしを見て 

  天辺も揺れる楓の下の道に人としてあふ五月のひかり 

やわらかい風景の中の、あかるいナルシシズムも健在である。浪漫的な心情が、描かれた情景のなかに豊かにあふれるかのようである。 そして、精神的な深みを増しているように思う。ここでは、たとえば生きる喜びを感じさせるであろう。

 

  奇麗な指はリアルではない傷口をビニール傘のやうにくるまれ 

  少女のネイルアートのばら色の指二本野菜サンドをはさむ 

阿部公房は何かの小説の中で、浪漫主義を絹のストッキングを履いた脚で例えていたが、ビニールでくるまれたかのような指も、ネイルアートで装飾した指も、また浪漫主義的な表象と取ることができるであろう。 

 

  ドーナツショップに細き足首群れてゐて蜾蠃少女と再びの逢ひ 

しかし、綺麗な指も細き足首も、もはや少女のものであって、「私」のものではないのであろうか。少女=私と言い切ることのできないためらいが……あるような、ないような。

  

  雪の降る前のつめたさ立春の霙まじりの雨の舗道に 

  初春のことほぎ食を病室に付き添ひ涙ながらに食べる 

  ああ雪と弟の声ゆれながらひえた柩の父に降る降る 

柩のなかの冷たくなった父に雪の降る情景は、現実ではなくとも、それ以上に真実である。心のなかに、まことの時空に、白い雪がふっているのである。

先の歌集にあった華麗な傾向がもはや過去のものと思えるほどに、この歌集では表現もさっぱりとしていて(どちらが良いというわけではない)、そしてなお浪漫的詩情のただよう作品たちがある。時はさらに移り流れる。次の歌集ではどのような歌風の展開があるか、かたずを飲んで待つ思いがする。

 

 

 

 

 

 617

 

    原田ゆり子歌集『春の畦道』 20145月 青磁社 

 

 原田さんは、「白珠」の準同人欄に作品を発表しておられたかたである。発表しておられたとは、この歌集にはさまれた一枚の紙に、この64日に永眠されたことが、ご主人の文章で記されているからである。

 

 中学生のときに学校で、現在「白珠」の選者をされている松岡裕子さんの教えを受けておられ、3月の日付のある、松岡さんの書かれた「跋」によると、「進学した公立高校の理科の先生と結ばれて、二男一女の母として幸せな家庭生活を送って」おられるとのこと。

 

 「(中学校)卒業後、空白の時期がありましたが、しばらくして同窓会があり、記念に私の歌集を贈ったころから、再び交信が始まりました。」と跋文にある。「著者略歴」では原田さんは、昭和221月の生まれで、平成15年「白珠」に入社とある。 

 

  次の世には逢へぬ夫かもベランダに添ひて見尽くす金環日食 

  夏の夜の海に泳ぎて夜光虫まとひしわれの肌若かりき 

  

  外科医師の器用さうなる指先を見てをり手術は明日に迫りて 

  ゆきづりの親子と並び仰ぎゐる電車待つ間の夕暮れの空 

  何かもののひとつ転がる音のしてやがて雷近づきて来ぬ 

  雛飾るわれに歳月過ぎゆけど雛は変らぬ頬の幼さ 

  健やかなふくらはぎを仰ぎつつエスカレーターにほのぼのとゐる 

  突然の別れはふいにやつてきて路地曲がるごと君は逝きたり 

  草笛は思わぬ高き音の出てふり返る夫よ春の畦道 

 

試みに、上記の十首を抄出してみた。松岡さんが採り上げておられる十八首と重なる作品は「雛飾る……」と「草笛は……」の二首だけではあるが、その十八首のいずれも、私も読んでいてこころひかれた作品であった。「感性の鋭い文学性のゆたかな作品」と書かれているように、感銘の深い作品が多いから、選択の余地が大きいのである。

 

 作者の「あとがき」には、「七年前に発生した肝臓ガンがステージ4まで進行してしまい」と記されている。たまたま私の机上にあった今年の「白珠」の二月号を開くと、原田さんの「青きみかん剥けばその香によみがえる運動会の旗と青空」「さみどりの大きなお腹のカマキリさんうちにももうすぐ孫生まれるの」などの作品が掲載されていた。 

 

 人生とは何か、短歌とは何か、考えさせられることの多いこの頃である。

                                                             (小谷博泰)

 

 

 

 

 

 

6月12

 

  井辻明美歌集『水晶散歩』 20012月 沖積舎

 

 現実を超えた傾向の歌集は、現実傾向のものに比して少ない。以前から気になっていた作者の、歌集の一冊としてこれを買った。インターネットという便利なものがあるので、入手しやすくなって、ありがたい。  

 

歌集ではいきなり広大な宇宙、悠久の歴史の間を風が過ぎてゆく。

 

  失血のしづかな恍惚ほぐれゆきリボンのごとくに宇宙がうたふ

  酸性のはげしき光そそがれて機体は浮かぶ 聖杯のふち

 読者は、まず、この広大な宇宙を流れる時間のなかで、恍惚感を味わう。宇宙、天、空、風、海、星、地球など、天文的な語彙の嵐にもまれ、目くるめく景観を体験する。

 

  すぐに、画面はクローズアップされて人文の世界をも映し出すようになり、読者としての私は、ややほっとする。

 

  思ひだしたくなけれどこの塔のあたりでわれの前世尽きぬ

そこにいる「われ」は、再生した超人か女神のような、あるいは遊離し転生する魂魄のような存在とも読み取れる(もう読者は、いつもの現実とは別の時空に居るのである)。あるいは、この作品の視点人物は「われ」だが、歌集には全能の視点がとられていると見ると読みやすいようだ。別の読み方があるかも知れないが。

 

  ほのぼのとひかりのすあしわたりゆく () 

  家族づれの幽霊あまた回遊す博物館の噴水まはり 

  地に生えた塔あまたあるこの街に天から垂れるあやつり人形 

  ウインドウを埋め尽くしたるレース片かの世の薫りを馬車は轢きゆく

 

 さて、そこでは、たとえば一行の叙景詩であるかのように、街の光景を叙事して一首が成される。だが、一般のそうした歌集とはまったく違った奇妙な感じがある。これはなぜかと考えると、たとえば構成を見ると、叙事部分ばかりがあって、抒情部分がない、そうした作品の比率がきわだって多い。さらに考えると、作品から受ける奇妙な感じは、それだけが原因ではなさそうだ。 

 

あとがきに「この五年ほどは、毎年ヨーロッパへ出かけていました」とある。必然的に旅先の風景からモチーフを得たように感じとれる作品が少なくない。しかし、叙景詩のようではあっても、旅先の風物を写実的に読み取ったものではない。

さらにあとがきを参考にして考えるに、過去と、過去の過去と、過去の過去の過去というように、積み重なった時間の歴史をともなって目に浮かんでくる情景を短歌に詠みとっているかのようである。 

 

  橋は橋をボオトはボオトをへだてつつ運河にゆるくのばされる皺 

  風車らはひたいに太陽を受けてならぶ うんと遠くから ふいてくる 雲 

     一本の藁色のおさげをのせた背が二輪をこいで水を越えたり

一見、物に即して絵画のように情景を描いているようにも思える。読み方にもよるだろうが、西洋の絵画にたとえるなら、あるいは自然主義的なモチーフによったかと思われるかもしれない。しかし、波の寄るさまを「ゆるくのばされる皺」と表現したり、「風車」のある情景を、擬人法をまじえて表現したり、少女を「おさげ」によって表したりするところからは、むしろ印象派以降の情景把握を思った方がよさそうである。 その結果、比喩法による表現をともなって、現実を超えた世界が見えるかのように描かれているのであろう。

 

  ああヴェニス水の流れの重たくて水さしの首のついばむ光 

  ポンペイの街に居酒屋あまたあり火山に先駆けて来たる酩酊 

これらの作品も、単に見たままを叙述したものではない。現実とはやや違った時間感覚と空間感覚を働かせて読む作品なのであろう。

 あとがきに「どうすれば世界が祝祭空間になるのか。それがたぶん私のテーマです」と書かれてある「祝祭空間」をこれらの作品は形成している、あるいは、形成し始めているのである。

 

なお、井辻は角宮悦子、林あまりと同じ、前田透の「詩歌」の出身で、いわゆる前衛短歌とは系譜を異にしてる。

 

 

 

 

6月4日

 

  永守恭子『夏の沼』2014年1月 角川学芸出版

 

所属する「水甕」の伝統であろう、しっかりと自分の目で見て感じる力と、感じたことを作品に書きあげる構成力と、一首の整った表現が印象的である。

  

  悔しくて泣いてゐる子がドーナツの孔を覗いて笑ふ目になる

  車前草の道に凹凸あるところ梳きたる犬の毛がただよへり

状景をとらえる角度に意外性がある。

そして、個性的な次のような作品にはっとさせられる。

 

  卓上に転がる梨の冷たさに触れてましろき裸をおもふ

  荒地野菊繁る感じに昼深きころの身体はくらぐらとする

  照りとほる夜の道のうへたれか目をうつすら開けてゐる水溜り

いずれも身体に関することばが使われるているが、それがことばの概念性をこえて、直接感性に響いてくる。この3首目の「目」は「水溜り」を擬人的にとらえたものであろうか。事実以上の何かを感じさせることとなっている。

 

  銀行の奥まつたところ冷え冷えと帆をあげ船のゆくが見えたり

和歌山市の在住とあれば、日常的にもこうした情景を経験するかも知れない。船は窓の遠くに見えるものか、あるいは応接室の壁の絵に描かれたものか。そうは思いながらも、2句目、3句目の表現から、どこか平常の光景を超えて、心に響くものを感じる。眼前の光景であっても、作品化されたものからは、どこか記憶の中の非日常的なものを見るように、感覚が刺激されるのである。

 

  インターホンに遠く聞こえて神を説くこゑの隙間を雨は降りをり

この雨の音にまじって遠くから聞こえる神を説く声もそうである。説明による情景の把握ではなく、直観的な感受によって、日常を超えた何かを感受させているのである。

 

  陽のなかの薄墨桜目つむればこの世の外の古き僧院

  桃が咲き柳あをめる絵のなかの村に人ゐて鶏の声する

  廃業の茶房の窓に此方向きてひとりで踊る博多人形

  無花果の葉の間より人声のする窓ひらきてゐたることなし

  車窓より見て過ぐる夜のクリニック薄青き部屋に白衣立ち居す

  ゆつくりと大橋をわたり夕空の暗きへつづく車列に入りぬ

  マジシャンの翻すマント風は吹き見知らぬ道が一本あらはる

描かれた情景は、現実を超え、この世の外へ、心象の中へと続いている。基礎にある描写力の確かさからか、しっかりとしたいい作品が多い。

 

短歌世界からも、もう、偽の近代合理主義の時代が、はるか遠くへ去ったことを明確に知らされたのである。

 

 

 

61

 

  小畑庸子『白い炎』20141月 角川学芸出版

 

 輪郭をはっきりさせた描き方をする作者だと思った。といっても相対的なものかも知れないが、日ごろ見なれている作品に比すと、線が太く、対象を明確にさせて描き出そうとしているように感じられたのである。

  

 とはいえ、日ごろの個人的な習慣で、まず繊細な漠然とした感じの作品を選ぶ。

 

  ふたり見しあふちの花はいと小さき紫なりき淡く匂ひき 

  街なかの雑踏にただ探しおり(かんばせ) 

一首目は『万葉集』の「妹が見しあふちの花は」(山上憶良)を思い出させることにより、二首目は古典的な「かんばせ」の語により、遠い日のあわい思いをほのかに匂わせる。 

 

 次に意外性があって印象が鮮明な作品。

 

  峠路の裾なる村の三叉路のミラーを出づる縞の仔猫は 

カーブミラーの中の世界は、ゆがんで異界のようにも見える。そこから、ふいに現実の世界へありふれた縞模様の猫が出てきたのである。意外性に驚く作品ともなっている。

 

  シャッターを降ろし忘れしガレージに秋の深夜の月光は満つ 

ふだんは閉めているガレージのシャッターを、たまたま閉め忘れていた。そこに秋の深夜の明るい月の光が射して、あまねくガレージの中を照らしている。あるいは、自動車は出ていて、からっぽのガレージとなっていたのであろうか。いつもは見るはずのない少し不思議な光景を見ているのである。

 

  わた雲は小さき雲をひきつれて真昼の海をひととき暗む 

  秋深き浜を覆へる昼顔はあさきみどりの種子をかかぐる 

前者は海と空との広大な景色を捉えているがゆえに、ほのかに神秘的である。日常的な視野を越えているからだろうか。後者の浜一面の浜昼顔が、秋になって種を付けた光景も、日常のように見えて、浜昼顔の常識的な光景とは異なるがゆえに、良い意味でわずかにずれが感じられるのではなかろうか。もっとも、ずれていたのは、既成概念による安易な現実把握の方であったのであろう。

 

  ひがん花白きが二年塀際に咲きて今年は姿消したり 

  軒低き茶房「古城」の戸は遣戸かの日の音に軋みつつ() 

 二年だけ咲いた白いひがん花というのも、現実でありながら、どこか日常的な情景を超えているような感じがする。また、昔、来たことのある茶房の戸が、昔と同じ音であくというのも、懐かしさを強く思わせるものである。さらに言うなら、遣戸が開いて向こうへ通じるという過去と現在の二つの事象ながら、時間を超えて耳に聞こえた同じ音によって、まるで同じいっときにそれが起こったかのような、錯覚めいた印象が生じもする。

 

  上流へ口を向けたる青き壜薄氷の上に息を吐きたり 

  木の上の猫高塀に跳び移り口開きたり声を出ださず 

 こうした現実の中で瞬間的にとらえたかすかさな危うさもある。日常的には見ない、見てもふつうは心にとめないであろう状景だ。  

 

 以上は自分の好みによって選んだもので、あるいは作者の所属する「水甕」とは違った鑑賞をしてしまったかもしれない。作品の多くは、次のように輪郭のはっきりした現実感のある作風で、好ましいものと思った。 

 

  京都烏丸茶房ティファニー 朝食のホットサンドと紅茶きたりぬ

もっとも、この作品は固有名詞が連想の広がりを持っていて、かならずしも一般的な現実の枠にはおさまらないかも知れない。作者は姫路の在住だが、歌集を読み終わって、あるいは京都に特別の思い出を持つかたかとも思った。ただ、このホットサンドは、現代の風物を代表するかのようではある。

 

なお、この歌集は、必要あって兵庫県立図書館で読んだもので、機会をみて、あらためて詳しく読んでみたいと思っている。(がんばってみたが、インターネットの本屋では手に入らなかった)

 

 

 

 

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   尾崎まゆみ『時の孔雀』20089月 角川書店 

 

 「歌集との出会い」と書きながら、どちらかというと写実系の歌集ばかりで、前衛系が一冊もなく、バランスがとれないなと自分でも思う。これは、いただく歌集がそうなのであって、いわば当然の結果である。あるいは、歌壇の情勢も、そのような傾向になっているのであろう。 

 最近、必要あってインターネットで、ある歌集を購入したさいに、偶然この歌集を見かけて、あわせて購入した。 

 

  すぎてゆく時の孔雀の足跡のその追憶の淵に母ある 

 巻頭2首目の作品で、歌集の名前もここからとられたものであろう。「時」と「孔雀」をつなぐ(あいまいで、どうとでも取れる「の」で繋いでいるので、私には時を孔雀で比喩したような表現とも、あるいは時を統べる孔雀、時を紡ぐ孔雀といった意味かとも取れる)など、なかなかイメージが豪華で圧倒される。 

 

  羽化のよろこびは醜したふとしと眉刷くに繊月のつめたさ 

「美し」ではなく「醜し」を持ってきたところに、さらに強烈な耽美を感じる。「羽化」と「よろこび」「たふとし」、「眉」と「繊月」、「繊月」と「つめたさ」などの、イメージによる縁語のような 響きあい、匂いあいがある。私は鏡を前にした化粧の抽象化、象徴化と想像したが、そう特定するのは、深読みであって、よくないかもしれない。物語性を読み取ることもでき、全体的にシュールな雰囲気である。

 

  沈丁花からのくらやみ目隠しの鬼の両のてのひらにつかまる 

 歌集から、ふと与謝野晶子のナルシシズムある、耽美で官能的な世界を思い出すのだが、ただ、この『みだれ髪』には、鉄幹がいない。いるのが「目隠しの鬼」であるところ、むしろ北原白秋の『邪宗門』『思ひ出』を思い出すべきか。 

 

  葉桜のまぶしくあまく遊歩道千姫の足首がひらりと 

 この官能的なチラリズム、足フェチの谷崎潤一郎なら目まいで頭がクラクラするだろう。「あまく」が何の共感覚か定かでないところが、千姫を指さしているようにも思えて、蠱惑的である。( 作品の詩情は総合的に感じ取るものであるから、ほんとうは分析してしまっては、よくないであろう。寛容されたし)。

 

  くやしいほど匂ひが痛い乳白に息むせかへるやうな曇り日 

「嗅覚」と「痛覚」と「視覚」と(体内感覚?)と(皮膚感覚?)と。多様な感覚が照応し、響応しあっているところ、白秋以上にまばゆい。もちろん、直観的に読み取ればいいので、いちいち感覚を分析する必要はない。

 

     一片の秋きたるらしかりそめの風透きとほつてゆく川のうへ

  満天にきらら星屑ながれてはまた生まれたる時のあぶくは 

  手を洗ふ金木犀の香の闇にひかりのひとすぢが来て 

  (あま)()孔雀とお瑠璃色やう

   聖餐圖みたす百合の香柩からたましひひとつ翔りたまへば

  この歌集、日常の散文のように、言葉で何らかの素材をとらえようとしたものとして読むと、とまどう作品が多いが、なかばは言葉自体を芸術的な素材としたものとして読めば、言葉がキラつくようなまぶしさはあるにしろ、読みにくくはない。よく立ち現れる身体語彙に幻惑されるが、そこはあまり概念としてこだわらないで、直観的に感じ取った方が読みやすそうである。一種の現代詩を読むような読み方になるかもしれない。それが読み取れる作品には、豪華でシュールな物語性を見ることもできる。この読みは、私の読者としての特権を行使したものかも知れないが。

 尾崎まゆみは「玲瓏」に所属する。もちろん、塚本邦雄に師事しているから、晶子や白秋を言うまえに、塚本邦雄を言わねばならないところだが、私は、寺山修司や春日井健を読んでも、塚本邦雄の歌集は読んでいない。もちろんアンソロジーなどで少しは読んでいるが、語るほどの知識は持たない。そのうち、いやでも読まねばならない時が来るかもしれないが、今はまだ、私は真の意味での写実と、「白珠」の知的抒情を追いかけている途上にある(「私」というもの、あてになりませんけど)。

 

 

 

 

  4月30日

     大崎瀬都『メロンパン』2014年3月 ながらみ書房

 

  一生に二度ない今日の夕暮れをわれは寄席にてまどろみてをり

  内側から照らされてゐるマネキンのからだに似合ふ浅葱の下着

  ロスタイムがもし人生に、否あらずインターネットカフェの薄闇

 

この作者は千葉県我孫子市の在住である。関西からすれば、東京と同じ文化圏のように思うが、どうであろう。「新宿のつばめグリルで食事してお笑いを見て娘と別る」などとあり、神戸から大阪へ行くていどの距離感かもしれない(神戸は細長いので、これでは漠然としすぎているが、まあ、だいたいの感じである)。

巨大都市東京を中心とした首都圏に住むことの、明るいアンニュイを感じさせるいい作品が多い。上記の作品に見るように、柔らかな軽い皮肉(フモール?)のまじった、機知ある微苦笑も散見する。おのずからに、批判精神を身につけた世代でもあろうか。

 

  うつくしまふくしまをそつと避けながら救援物資は運ばれゆけり

  疲れきりたうたう夢を棄つる子よ芸名ふたつをわれは忘れず

 

人生のほろ苦さを感じさせもする。

いまもなお、東京とその周辺の経済圏へは、他の地方からの人口の流入が続いているのであろう。この作者の場合も、関東の生まれではない。

 

  春の日の暮るる水田をとんとんとトラクター行く灯りをつけて  

  揚羽蝶ひらりと入(はひ)り日本間を通り抜けゆく故郷の家

   

東京圏からなんとか一日で行けそうな範囲、電話で毎晩でも話のできる所、と言えば、きょう日、ほぼ日本中がそうかもしれないが、その土地の名前は、歌集を読んでのお楽しみとしておこう。「枕木のコンクリートに降る雪がひとひらごとに消ゆる黄昏」「午前零時小さき蜘蛛は動き止めひそかに壁のシミとなりたり」などは、あるいは自然の豊かな他の地方からの出身者の感性でとらえたモチーフででもあろうか。職場の忙しくて、おおむね希薄そうな人間関係もよく詠み取られている。

  作者の所属するヤママユという結社は、不思議である。巨大な創始者がなくなって後も、ますます多彩な個性が花開いている。前登志夫に、それだけの人材を集め育てる時間と才能があったということでもあろう。

   

 

 

 

 4月16日

     森屋めぐみ歌集『猫の耳』2014年2月ながらみ書房

 

  からだだけ先に眠った午前二時朱いほおづき青いほおづき 

  「まだ独り?」確かめるような旧友の電話口の声 少し笑った 

      雨雲が切れて光がこぼれ落ち街がゆっくり走り始める 

  舞台袖の楽屋稲荷に目礼しエレベーターで八階へ行く 

  低く低くジャズの流れる和食屋で遅い昼食雨が降り出す 

  紅白のバックダンサー一夜明け我の職場でバイトしており

 

 ときどき、読んで得したと思う歌集がある。この歌集も読んでよかったと思った。

 短歌を田園短歌と都会短歌に分けるなら、この歌集は典型的な都会派である。それも、都会化のもっとも進んだ東京の在住である。近代歌人にも東京に住んだ作者は多い。啄木、茂吉、夕暮……。しかし、この歌集の作者は生れも東京のようだ。その東京も、近代に比べると、さらに都会化が進んだ東京である。

 都会に短歌のモチーフはあるか。神戸のような山と海にはさまれた都会に住んでいると、都会と言っても、つい自然の方に感動が向かいやすい。だが、この歌集に田園は少ない。「蜩もミンミンゼミも頭上から突き刺すようなカタカナで鳴く」「ひまわりがクワッと口を開けている夏が恐いと少し思った」「次々に金木犀の花はじけ鈴なるごとく香り広がる」この三首目などは共感できる。あとの二首は、田園離れした都会から、動植物の意外な印象を見出したもののようでもある。いずれも、ちょっとポップな感じとでも言おうか。

 こうした作品はさておき、都会生活からモチーフをつかみ取った作品たちが新鮮であった。きょう日、都会派の短歌は田園派の短歌より、量においては多いかと思う。あるいは、はるかに多いかもしれない。だが、たとえば田辺聖子がとらえた大阪の生活とは、少し似ていて少し違った東京の生活が新鮮である。歌集の作者の鋭敏な感性で捉えているからでもあろう。

  奇術師の祖父の背広の内側に隠しポケット五つ残れり

これなども、なぜか分からないが、いかにも東京らしい感じがした。

 

 

 

 

 4月15日

      藤本則子歌集『蝸牛も過客』2014年2月角川学芸出版

 

  黄塵にけむる昼すぎたかむらの孟宗竹が皮を脱ぐ音 

  七月の海まだ暮れず夕菅は三日月色に開きそめたり 

  唐辛子の赤き一束吊り下げて晩夏の海へかたむく苫屋 

  ゑのころ草揺るる夕暮溝川を水ひかりつつ水を追ひ越す 

  山坂を演歌流して下り来ぬ魚屋今日は幼を連れて 

  自転車のあかりが揺れて狐火のごと冬ざれの田んぼ道ゆく

 

 比喩を使う場合はともかく、この歌集では一般的に、自分の気持ちを概念などによって言い表すことは、ストイックに避けられているようだ。上記の作品などは、描写することに徹した叙述のしかたである。描写といっても、いわゆる「くそリアリズム」とは異なる。小説の一節のような、端正な構成がなされている。これは、意識的になされたものではあろうが、おのずからそう成ったというものでもあろう。

 

 詩なら四季派を思い出させる所がある。こうした、主観の表出を避けた、つまりどう思うかという気持ちの表出を避けた、直観的にイメージをつかみ取らせるような、客観的な描写法に、私もあこがれて作品に求めたことがある。

 

 独自の感性によって、絵画性や、ときに物語性がもたらされる。それを読者の鑑賞力に預けているところが、またいい。所属する結社、水甕の伝統的な作風の流れの一つにのっとったものかもしれない。15年間の作品の中から317首を選んだ歌集とある。

 

 

 

 

  3月17日 歌集との出会い  (この項 重出)

 

 歌集は、そして句集もそうらしいが、いただくものであって、あまり買わない。これは、いただいたものを読むのに追われて、買ってまで読む余裕がないのも、一つの原因であろう。

 ところで、いただくものであるがゆえに、予想もしなかった不思議な個性にであえることがある。総合短歌誌などでは出会えない喜びである。

 しかし、記録していないので、誰の作品だったか忘れてしまう。しかし、忘れてしまうのは惜しい。ふと、その歌集が本棚から見つかったような折にでも、ここに記録しておきたい。

 

 次の5首は、岩野伸子歌集『鉄とゆふがほ』2010年5月青磁社

 

  月の差す庭を這いをり身の丈は五センチほどの百足一匹 

  土つきし鍬を洗ひて戻す間にたちまち暗き裏庭となる 

  つと夢の中にいりきし少年はたしかに昔の弟なりき 

  川沿ひに卯の花白くこぼれをり螢の時間に少し間がある 

  文ひとつきみに書く間を硝子器に夕顔一輪ひらきそめつつ

 

歌集の三分の一に達しないページに、すで何首もの作品と出会えた。写実を徹底したような作品だが、わずかな時間のできごと、あるいはごく小さいかすかな存在を詠み取ることで、シュールな世界に通じるような情景が描き出されている。現実描写が徹底されることで、現実がただの現実ではなく、それを超えたものと感じ取られる。近代短歌とは、すでに域を異にする現代短歌の達成を感じた。

 

 

 

 

 2014年3月3日 歌集を読んで  (この項 重出)    小谷博泰

 

  (1)南鏡子歌集『山雨』

     20142月出版 ながらみ書房

  

まずは、南鏡子の作品から6首を引用する。

 

  降りつのる雨にざくろの花も落ちめぐりどろどろ日の暮れが来つ 

  たんぽぽのほそい絮毛がそとうみを今越えてゐる夜かもしれない 

  春は疾(と)うに過ぎてしまひぬ 裏口で泡生みながら洗濯機回る(

) 

  故郷に鳴くかなかなのこゑ繁し途方もなき夏のさびしさ 

  不器用な花とぞきみの言ふ八ツ手 ガスボンベある露地に咲く花 

  ぼつぼつさしかかりたる峠道 ゆめの中にても提灯花が見え

 

写実的でありながら、ときに現実を超えて、ふっと向うの世界が、この世から透かして、あるいはこの世にだぶって見えそうな気がする。しっとりとした上質の映像の一カットを見るような情景もある。そして、その奥に、見えない時空の広がりを感じさせる。あとがきによると、作者は、光田和伸氏に師事しておられる。さらにヤフーで調べると、光田氏は、結社「五〇番地」に所属しておられる。よくは知らないが、この結社は高安国世系と聞いたことがあるのを思い出した。